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2004年1月 アーカイブ

2004年1月15日

【学生の声】 6月14日「マンガ論」

【今回、マンガ論の講義では、つげ義春「ねじ式」と、文芸作品・宮沢賢治「銀河鉄道の夜」をとりあげた。次回は新たな試みとして、受講生が実際にマンガを描く予定・・】

6月14日の授業「マンガ論」(所沢キャンパスにて)に寄せられた学生からの声139件中から10件(原文のまま)を以下に紹介します。

名称があるからこそ、其の物を認識できるというのは面白い。物の本質というのは、案外名前にあるのかもしれません。名前というものは・・「解釈」を具現化したものでしょうか?難しい・・分かりません。僕が思うに、世の中多種多様であるということですかね・・それをプラスにとるかマイナスにとるかで、世界はさらに広がっていく・・キリがありませんね。  45分・・しご(死後)ってことでしょうか?(村瀬一路・放送学科1年)

『解釈の快楽は空虚と紙一重である』―清水正 
最近、僕は心から楽しいと思う事が少なく、日々ある種の虚無感に悩まされていました。何をしても虚無であると感じていて、溜め息でカレンダーを繰るような毎日。しかし、今日、一つの解釈を、答えを、上記の言葉から学んだような気がします。ありがとうございました。(佐藤裕太・文芸学科1年)


黒板消しを例にとって「角度によって見え方が違う」と言ったのはわかりやすくてよかったです。正解や絶対というものはなく、ひとつひとつどこかを見て何かを言っているというのは私もそう思います。(油原陽子・文芸学科1年)

僕はマンガ家になりたかったので来週の授業が楽しみだ♪(深友利・演劇学科2年)

「ネジ式」を読んで。この作品に、生命はない。ただそこには魂だけが存在する。先生の仕事とは、そんな孤独な魂を救い出すことにあるような気がした。(瀬古真史・放送学科4年)

1つ解釈の入口を作ると、次々と一本の解釈の道が完成するのが楽しい。その道は入口によって異なると思う。(蔵内彩季子・文芸学科1年)

カムパネルラが列車の中から見ていた世界は死後の世界ではないか、カムパネルラは死後の世界へ続く列車へ乗ってしまったジョバンニを助ける為、川へ飛び込み、ジョバンニの分身と言えるザネリを救出し、自らは死んだ(=列車を降りた)。ぎりぎりのところでジョバンニ(=ザネリ)は助かったが、45分(蘇生可能時間か?)を過ぎたカムパネルラは死んだ、と僕はそう考える。列車つながりだが銀河鉄道999はどうだろう。鉄郎は代理母メ―テルとの合体を自らが乗っている列車に妨まれ、機械の体を手に入れる(再生する)ことをも邪魔されたのではないか?(武田英樹・映画学科1年)

テキストに種類があるというのをマンガ論を受けていて初めて知った。作品は一つしかないと思っていたが、出版社や編集によってこれほどの差異があらわれるものかとおどろいった。それによって批評もかわるのなら論評は無数にあることになるのかと思った。(木村愛・文芸学科2年)

ねじ式のラストはすっきりしたものかと思ったら根本的解決をせずに終わっているんですね。主人公の精一杯の開き直りというのが何だか痛々しく感じました。(田中沙紀・演劇学科2年)

「銀河鉄道の夜」は小学生の時に少し読んだぐらいであったけれど、難しいという印象しかなかったのであまり覚えていなかったけれど、もう一度、じっくり読みたいと思いました。また、「ねじ式」の最後は主人公の求め続けてきた母であるものが、結局は違う形で、今まで気味悪がっていた印象が少し消えました。(中西沙織・放送学科2年)

2004年1月18日

チェーホフの『退屈な話』を授業する(1)

-つげ義春の『チーコ』、スタンバーグの『モロッコ』と関連づけて-

 今日はチェーホフの『退屈な話』について話すゾ。今までずっとドストエフスキーの話をしてきたが、とにかく今日はチェーホフ。前に志賀直哉とドストエフスキーの話をしたが、志賀直哉は現代に蘇ることはまずないと思うが、チェーホフは蘇るナ、絶対に。このあいだ映画『小犬をつれた貴婦人』について話した時に、あのヤルタの海岸に打ち寄せられた空き瓶についてふれたよネ、覚えているかナ。現実に生きる人間の象徴のような気がするネ、あの空き瓶には。穏やかな波間に浮かぶあの一本の空き瓶……沈みもしないが、飛びだすわけでもない。死んでもいないが、しかし決して生きてもいない・・わたしはそんな現代人の生存を〈空き瓶の実存〉と名付けたわけサ。もし単なる〈空き瓶〉だったらサ、ただ存在しているだけ。しかし人間だったらネ、いちおう誰でも、「私はなんで生きているのか?」とか考えるよネ。だから〈空き瓶〉の後に〈実存〉を付けたということ、分かったネ。
 今日、たまたまチェーホフ論のあとがきを書きおえたんだ。今年はチェーホフの没後百年でネ、その記念にチェーホフ論を出そうと思って去年の九月から毎日書き進めてきたんです。『小犬をつれた貴婦人』『かわいい女』『六号室』『黒衣の僧』って批評してきてネ、昨日『退屈な話』について書きおえて、今日は江古田のシャノアールで「あとがき」を書いて、それから大学に来たってわけダ。それで新鮮なうちに話しておこうと思ってネ、今日はまず『退屈な話』について話す。


 『退屈な話』はロシア語で『Скучная история』といって、скучнаяはскучныйの女性形で「退屈な」とか「詰まらない」とか「面白くない」とかいう意味がある。今回、わたしが批評するにあたってテキストにしたのは池田健太郎の訳で『わびしい話』となっている。彼はскучнаяを「わびしい」と訳したわけだけど
、わたしは敢えて「退屈な」にした。なにしろチェーホフはかなりイロニーのきいた小説家として知られているように、自分の書いた「詰まらない話」「退屈な話」が実に「面白い話」、少しも「退屈しない話」であるということを証明したかったわけだからネ、はじめから「わびしい話」なんていうように訳したら、そのまんまになってしまうということです。
 さて、今日は『退屈な話』のすべてを語るつもりはない。まず、今日はつげ義春の『チーコ』について話します。『チーコ』については「マンガ論」や「雑誌研究」の授業でもとりあげたので、すでにわたしの話を聞いたひともいるでしょう。聞いたことのあるひと? あれ三人ですか。それじゃ大半のひとが聞いていないのか。『チーコ』を読んだことのあるひと? あれ、ほとんど読んでいないの。それじゃ仕方ない、テキスト持ってきますから、少し待っていて下さい。

 〔三分後〕それでは『チーコ』について話します。時間の関係で急ぎます。『チーコ』の奥さんは、一度堕胎した経験があるというのが、わたしの見解です。こういった見解、解釈は、テキストの解体と再構築によってなされます。いいですネ、テキストの解体というのは破壊ではないですヨ、破壊してしまったら復元できませんからネ。奥さんはここで「私いいもの見つけちゃった」と言ってますネ。その時この男、芸術漫画をめざして貧しいながら頑張っている男がですネ、「何を?」って聞き返しています。あ、君〔前列三番目に坐って聞いている女性受講者に〕、この奥さんのセリフを隣のタクサガワノヴィチ〔或る男子学生にわたしがつけたロシア風名前〕に向かって言って下さい。
 「私いいもの見つけちゃった」、はいタクサガワノヴィチ答えて下さいヨ。
 「何を?」・・なるほどネ。
 じゃ今度はハルーナさん、タクサガワノヴィチに向かって奥さんのセリフを言って下さい。タクサガワノヴィチはアドリブでテキストの男のセリフではない、自分の言葉を発して下さいネ。
 「私いいもの見つけちゃった」
 「だから?」・・なるほどネ、タクサガワノヴィチ、少し冷たくはないかネ。
 いいですか。この男は作者つげ義春の青年時代を反映していると見ることができます。
漫画は単なる女子供向けの娯楽、消耗品であってはならない、漫画もまた文学作品のように芸術としての表現でなければならない、まあそんなふうに真剣に漫画について考えていたことがつげさんにもあったわけです。尤も、こんなことをつげさんに確かめたら「べつにどうでもいいんですが……」なんて言われるでしょうがネ。
 男は自分に稼ぎがないんで、奥さん(まあ、二人は結婚しているのか、単に同棲しているのかはっきりとは書かれていませんが、紛らわしいのでここでは奥さんと言っておきますネ)に水商売の仕事をさせているわけです。男は自分の仕事に情熱を傾けていますが、奥さんにしてみれば、好きな男と、貧しくても幸福な生活ができればいいわけです。そんなある日、彼女は身ごもった。好きな男の子供を身ごもったわけですから、こんな幸福なことはなかったでしょうネ。おそらく駅前かどこかの産婦人科へ行って、妊娠を告げられたとき、彼女は嬉しかったと思います。それで、このセリフになるんです「私いいもの見つけちゃった」とネ。つまりこのセリフには妊娠を告げる喜びの言葉「私、あなたの子供ができちゃった」がダブっているんです。ところが、男は何といいました。「何を?」ですよ。奥さんが甘えた感じで「ねえ買ってもいいでしょう」と言った時にも「だから何を?」ですヨ。
 いいかい、この男はこういう言い方しかできないけれども、違った言い方だってできるんですヨ。それではハルーナさん、わたしにむかって奥さんのセリフをもう一度行ってみて下さい。
 「私いいもの見つけちゃった」
 「そりゃよかったね」
 「ねえ買ってもいいでしょう」
 「いいよ」
 ・・こういう言い方もできるわけです。いいですか、先ほど言ったように、奥さんは一度堕胎したことがあるという解釈を踏まえてこの場面を見るとですネ、この男は奥さんに対してかなり残酷なことを言っていることになります。奥さんにしてみれば『私はあなたの子供が欲しかった。けれどあなたは子供を生むことを願わなかった。私たちには子供を育てる経済的余裕もない。それで私は仕方なく自分で決断して子供をおろした。だから子供の代わりに、せめて文鳥のヒナを買いたいと言っているのに、あなたは文鳥なんか飼ってどうするんだい、などと無神経なことばっかり言っている。ああホントに嫌になってしまう』ということだヨ。
 いいかい、この男の特徴というのはサ。子供が出来た時にも、文鳥のヒナを買うときでも、決してはっきりと自分の意見を言っていないということなんだ。子供をおろせ、とも言っていないし、もちろん産めと言っていない。だから、奥さんは自分一人で決断したんだヨ。ほら、次のページをごらんなさい。奥さんが仕事に出掛ける時間になってふたりで駅まで行くけど、その間、男は文鳥のヒナを買っていいとも、いけないとも言ってないでしょう。なんかあいまいなままに、奥さんの意思が通ったという感じでヒナが買われるわけです。
 それでいいですか、今日話したいことはこの、奥さんが男に見送られて駅の階段を昇っていく場面です。つげさんは奥さんの足元を描いています。そしてタタタタと手書き文字を書き入れています。男は黙って奥さんの後ろ姿を見送っています。ふつうに読んでいるだけでは別になんていうことのない場面ですよネ。おそらく男は、いつものように奥さんを見送っていたのでしょうし、話の流れから見れば、駅前の鳥屋で時間をくってしまった分、奥さんは先を急いでいた、だから間に合うように階段を急いで駆け昇っていった、とまあこのように読み取るわけですネ。しかしつげ義春という漫画家はそんな単純な作家ではないんです。

 いいですか、奥さんのこの階段のタタタタという昇り方の中にですネ、彼女の男に対す
るすべての思いがこめられているんですヨ。私はあなたの子供を生みたかった、けれど貴
方の意を酌んで堕胎した、だからせめて文鳥のヒナを飼ってもいいでしょう、と甘えて頼
んでいるのに、「鳥なんか飼ってどうするんだい」ですからネ。奥さんにしてみればこん
な無神経な思いやりのない男とこれ以上一緒に生活するなんてできないと思って、もう二
度とおまえの顔など見たくない、そう思っているんです。しかし、しかしですよ、奥さん
は同時に自分が再び男のもとへと帰ってくる、帰ってこざるを得ない自分自身を痛いほど
知っているんです。そういった女の階段の昇り方をつげさんは見事に描いているというわ
けです。
 尤も、つげさんに聞いたところではそこまでは意識していなかったそうですが……。テ
キストの解体と再構築の批評は、いいですか、作者が意識していない領域まで踏み込んで
いくんです。作者が無意識で描いた領域まで突き進んでいかないと批評はダイナミックに
なりませんからネ。作者の意図は……なんて次元で批評を展開してもまったく面白くあり
ません。感性の鈍い、想像力に欠けた、単なる実証的な研究ほど退屈でバカバカしいもの
はないですネ。
 『チーコ』についての講義はこれでおしまいです。興味を持ったひとは、わたしの書い
た『チーコ』論を読みなさい。分かりましたネ、タクサガワノヴィチ。
 さて『退屈な話』ですが、この主人公はニコライ・ステパーノヴィチという六十二歳に
なる大学教授です。三等官という設定ですから、まあ大臣級のお偉いさんです。官等は十
八世紀にピョートル大帝が官位を十四等に分けて設置したんですネ。ゴーゴリやドストエ
フスキーが好んで設定した万年九等官というのは言わばたたき上げの最終地点です。日本
で言えば、まあ万年課長というわけで、もうこれ以上の出世はない。尤も、現代では課長
になるのも難しい、実に厳しい時代を迎えているわけですがネ。
 『退屈な話』はサブタイトルに「ある老人の手記より」とあります。この老人というの
が大学教授のニコライ・ステパーノヴィチです。つまりこの小説はニコライ・ステパーノ
ヴィチの〈手記〉という形をとっています。
 さて授業では、今までずっとドストエフスキーの話をしてきたわけですから、ニコライ
・ステパーノヴィチと言えば何かピンときませんか。ドストエフスキーの『悪霊』を読ん
だことのある人は何人ぐらいいるんでしょう。えっ、三人しかいないの。まあ、いいか。
『悪霊』の中にステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーという男が出て
きます。ステパンはヨーロッパに留学して最新の学問を身につけてロシアに帰還してきん
ですが、大学にちょっと勤めただけで追放されてしまった。この男を息子ニコライの家庭
教師として雇い入れたのがヴァルヴァーラという、広大な領地を有する女地主です。ニコ
ライは後に、つまりこの小説が始まる頃にはかなり虚無的な存在として登場してきますが
、ステパン先生の教え子であった頃はむしろひ弱な腺病質な子供だったんですネ。それで
ニコライが十歳の頃、ステパンは彼と肉体的な関係を結んでしまったんです。いわゆるホ
モセクシャルな関係を結ばれたニコライはそれ以来〈人類永遠のかの憂愁〉をたたえた子
供になってしまいます。
 ドストエフスキーは十九世紀の小説家ですから、まあこういったことは直接的に書きま
せん。分かるものにしか分からないやり方で、通の読者にそっと囁くように知らせるんで
すネ。
 さて、ステパンは女好きの美少年好みでもあったらしいのですが、ヴァルヴァーラの庇
護のもとに好き勝手なことをしまくっています。シャンパンをあおりながら、ロシアとは
、ロシアの神とは、などと、まるでソクラテス気取りでしゃべりまくっていたんですネ。
しかしこのステパンに確固たる理念や哲学があったわけではないんです。言わば彼の内部
は空っぽです。何にもない。虚無というほど立派なもんじゃない。なんかだらしなく空っ
ぽなんですネ。そのくせ、饒舌です。いつの時代でもそうですが、こういった空っぽな雄
弁家に影響される若者はあんがい多いんです。このステパン先生の教え子であったニコラ
イ・スタヴローギンはその犠牲者であったかもしれませんネ。やがて彼もまた虚無の権化
のような男になります。要するに彼は、善悪観念を磨滅させるほどに徹底的に考えた青年
です。彼は自分自身を材料にしていろいろな実験を試みた男ですが、結局確かなものを手
に入れることができなかった。
 ここで『悪霊』について詳しく語ることはしませんヨ。興味のあるひとはわたしの『悪
霊』論三部作を読みなさい、いいですネ、タクサガワノヴィチ。要するにわたしがこの短
い授業時間の中で強調したいのは、『退屈な話』の手記の主体であるニコライ・ステパー
ノヴィチが『悪霊』のステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーとその教
え子であったニコライ・スタヴローギンの名前を受け継いでいるということです。名前の
ニコライはニコライ・スタヴローギンの名前をそのまま、父称のステパーノヴィチはつま
りステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーを意味するのではないかとい
うことです。
 今までチェーホフの文学はドストエフスキーの文学とは対極にあると考えられていまし
たが、チェーホフの作品を詳細に分析してみると、彼がドストエフスキーの文学を熟読し
、自分なりに消化していたことは明白です。中途半端な小説家は影響を露骨にだしますが
、チェーホフの場合はその影響の跡がなかなか発見できないほどに消化しているというこ
とですネ。それにドストエフスキーを好きな評論家がチェーホフについてはあまり発言し
てこなかったということもあります。
 さて、わたしが今日、問題にしたいのは『退屈な話』の最後のほうに出てくるカーチャ
とニコライ・ステパーノヴィチの関係についてです。カーチャというのはニコライ・ステ
パーノヴィチの養女です。同僚の眼科医が死んで一人娘のカーチャ、当時七、八歳であっ
たんですが、彼女をニコライ・ステパーノヴィチが引き取ることになったわけです。二人
の歳の差は三十七歳です。養父と養女、いわば先生と教え子のような関係でもあったわけ
ですから、二人の間にまさか男と女の関係があったなんてふつうの読者なら絶対に詮索な
どしないところです。わたしもはじめはそう読んだ読者の一人です。ところが、十九世紀
のロシア文学というのは、ツァー(皇帝)専制下、厳しい検閲制度のもとにあって、露骨
な性描写など許されていなかった。ですからドストエフスキーもトルストイも男と女の具
体的な性関係を描写することはなかった。しかしです。彼ら世界の文豪は描かずして描く
という手法を開発します。例えば『罪と罰』の話を思い出して下さい。この小説は日本語
訳にすると千枚以上の長編ですが、設定された時間は非常に短い。十三日間の物語で、し
かも主人公のラスコーリニコフは四日間ぐらい意識不明であったりしますから、実際的に
は一週間ぐらいに起きた出来事を追っています。まあ、少し厳密な言い方をすれば、ラス
コーリニコフの過去が描かれていたりしますから、単純に一週間の物語とは言えないとこ
ろもありますがネ。しかし今日はそんな厳密に『罪と罰』を批評しようなどとは思ってい
ません。詳しいことを知りたいひとはわたしの『ドストエフスキー「罪と罰」の世界』を
熟読しなさい、いいですネ、タクサガワノヴィチ。
 話を元に戻しましょう。とにかく十九世紀の文豪たちにはセックス描写は許されていな
かったのです。しかし、今度のチェーホフ論『チェーホフを読め・・空虚な実存の孤独と
倦怠・・』にも書きましたが、ドストエフスキーの『罪と罰』なんか、いたるところに描
かれざる〈セックス描写〉が隠されているんです。一度読んだぐらいで「『罪と罰』って
ステキ」なんて言っている女子学生が毎年五人はいますが、しかし彼女たちのうちで誰一
人ラズミーヒンの〈すけべ〉に気づいたひとはいませんネ。この青年、ラスコーリニコフ
と違ってたいへん逞しい男で、翻訳の仕事などをてきぱきこなして金を稼ぎ、ちゃんと経
済的にも自立して学生生活を送っています。友情にも厚く、ラスコーリニコフが訪ねてく
れば、すぐにバイトを紹介するようなひとのいい好青年ですネ。ですから「わたしラズミ
ーヒンが好き」なんて女性はけっこういます。が、このたくましい好青年、女にかけても
なかなかの発展家で、気にいった女はすぐにものにする。ラスコーリニコフの下宿先を突
き止めた時に、当のラスコーリニコフは意識不明で屋根裏部屋のソファに寝込んでいるが
、そのわずか二、三日の間に下宿の女将プラスコーヴィヤといい仲(男と女の関係)にな
っています。
 が、二十歳前後の若い学生にそこまで読み取る力はない。それでそのことを指摘してや
ると、とつぜんラズミーヒン人気が下落したりします。まあ、あれですネ、ラスコーリニ
コフの妹ドゥーニャ、彼女はルージンと婚約してペテルブルクに母親のプリヘーリヤとや
ってくるわけですが、この美しいドゥーニャがラズミーヒンと結婚することになる・・わ
たしなどはホントいやになってしまいますヨ。なんでまたラズミーヒンなんですかネ。や
はりドゥーニャにはスヴィドリガイロフあたりを手玉にとってもらいたかったわけですが
、わたしから言わせるとあまり面白くない男と結婚してしまった。
 話を元に戻しましょう。『罪と罰』でなんと言っても描かれざる最大の〈濡れ場〉はソ
ーニャと最初の男の関係ですよネ。ソーニャの最初の男は誰か? 二十年も前のゼミでず
いぶん盛り上がったテーマですが、要するにソーニャの処女を買ったのは、あの酔漢マル
メラードフがペテルブルクじゅうで知らない者がないほど〈善良な人〉と吹聴したあのイ
ヴァン閣下ですネ。ソーニャの最初の相手の顔がはっきりすれば、彼ら二人の性的関係な
ど一行も描かれていなくとも、読者が想像力を働かせさえすれば鮮明に浮上してきます。
その他、スヴィドリガイロフとドゥーニャの関係とか、プラスコーヴィヤとチェヴァーロ
フ、ラスコーリニコフとナタリアおよびソーニャの関係など、描かれてはいないが、想像
すれば想像できる〈男と女〉の関係の場面はたくさんあります。まあ、きりがないのでこ
れぐらいにしておきましょう。詳しいことを知りたいひとは私が書いた『宮沢賢治とドス
トエフスキー』を読みなさい、いいですねシンタロウ君。
 さて『退屈な話』ですが、ニコライ・ステパーノヴィチがハリコフにやってきます。な
ぜやってきたのか。それは彼の一人娘リーザが好きになって結婚したいと思っているグネ
ッケルという男がハリコフに大きな屋敷と領地を持っているなどと言いふらしていたもの
だから、妻のワーリャが夫にハリコフに行ってくれと頼んでいたんです。ニコライ・ステ
パーノヴィチはどうもグネッケルが気にいらない。とにかく彼のすることなすことすべて
が気に入らずいらいらのし通しだったんです。しかし余命いくばくもない老教授は老妻の
言うことをきいてはるばるハリコフまでやってきたわけです。それでホテルに泊まって、
ハリコフ生まれの老ボーイにグネッケルのことを聞きます。するとそのボーイはグネッケ
ルなどという名前の屋敷は当地にはないし、そんな領地もないと断言します。まあ、ここ
だけ読めば、グネッケルは何か詐欺師みたいな男の印象が強いわけですが、チェーホフは
はっきりと書いていません。
 そうこうするうちに、娘のリーザが秘密に結婚式をあげてしまったという電報が老妻か
ら届きます。ニコライ・ステパーノヴィチはその電報を読んで愕然とします。が、その愕
然は娘の挙式ではないんです。彼はそのことに〈無関心〉の反応しか示せなかったことに
愕然とするんです。
 それでまたそうこうするうちにワーリャがニコライ・ステパーノヴィチのホテルに訪ね
て来ます。やはり老教授ニコライの〈手記〉とは言ってもチェーホフが作っている〈小説
〉てすからネ、次々に新たな出来事が向こうからやって来るというわけです。
 さて、いよいよわたしが言いたい山場です。ワーリャはニコライ・ステパーノヴィチが
病気で、あと何ヵ月しか生きられないということを知っています。まあ、知っているかど
うかははっきりとは書かれてはいませんが、それ位のことを察する感性がなければはじめ
からお話になりません。カーチャは執拗に「わたしはどうしたらいいんです?」と詰め寄
ります。この言葉は、人生の指針を老教授に求めているように聞こえないことはないです
よネ、というよりかそのように受け取られてきたわけです。しかし、いいですか、タクサ
ガワノヴィチ。若い女が、男に向かってこのようなセリフを何回も執拗に、ヒステリック
に、叫ぶように問うということは尋常ではないですよネ。
 チェーホフはさりげなく書いています。カーチャが手提袋からハンカチを取り出そうと
したとき、何通かの手紙が床に落ちてしまう。手紙を拾い上げたニコライ・ステパーノヴ
ィチは、筆跡でそれが同僚の文献学者ミハイルがワーリャ宛に出した熱愛の手紙であるこ
とを察します。この文献学者は五十年輩の教授で、毎日のようにカーチャの家を訪れては
大学内のことで毒舌を発揮していた男で、カーチャとはその点でも気が合っていたように
書かれていました。しかし、今、なぜカーチャがわざわざハリコフにまでニコライ・ステ
パーノヴィチを訪ねて「わたしはどうすればいいんです?」などと問いただしているのか
と言えば、それはつまりカーチャがニコライ・ステパーノヴィチを誰よりも愛していたか
らにほかならないでしょう。『わたしはミハイルに熱愛されている、ほらこんなにたくさ
んの熱烈な手紙を貰っている、しかし、しかしわたしが誰よりも愛しているのはあなた、
ニコライ・ステパーノヴィチなのです、いったいわたしはどうしたらいいんです?』まあ
、カーチャの内心を代弁すれぱこういうことになります。
 ところがニコライ・ステパーノヴィチはそのカーチャの心を知ってか知らずか、完璧に
はぐらかして「ほんとうに、カーチャ、わからないんだよ」などとバカなセリフを吐いて
います。が、カーチャはそんな言葉を耳にするためにわざわざハリコフまでやってきたわ
けではないですからネ、泣きながら執拗に食い下がります。するとニコライ・ステパーノ
ヴィチは「朝御飯でも食べよう」なんて、さらに間抜けなことを口にします。彼は「わし
はもうすぐ死ぬよ」とまで告白しています。カーチャはいっさいそんなことに耳をかしま
せん。当たり前ですよネ、カーチャはニコライ・ステパーノヴィチと朝御飯を食べるため
にハリコフまでやってきたわけではないんですから。カーチャは愛する、誰よりも愛する
ニコライ・ステパーノヴィチの、自分の思いと同じ思いの言葉を聞きたかった、ただその
ひと言を聞くためにすべてを捨ててハリコフにやってきたんです。
 しかし、ついにニコライ・ステパーノヴィチからその言葉を引き出すことはできなかっ
た。沈黙が訪れます。この沈黙のなかでカーチャは決定的に変わります。泣きじゃくりな
がら愛の言葉をおねだりする女から、断念した女、ニコライ・ステパーノヴィチに愛想を
つかした女に変貌します。ニコライ・ステパーノヴィチ、いやチェーホフはその変貌した
女カーチャを次のように書いています。いいですか、タクサガワノヴィチ、この場面は恐
ろしいですヨ。ちょっと読んでみますから、よく聞いてくださいヨ。

 沈黙が訪れる。カーチャは髪を直して帽子をかぶり、それから手紙を丸めて手提袋へ突
込む。・・これらの動作は、黙ったままゆっくり行われる。顔も胸も手袋も涙でぬれてい
るが、表情はもう乾いていて、きびしい。

 どうですか、わたしが言わんとしていることが分かりますか。このときカーチャはゆっ
くりと髪を直し、ゆっくりと帽子をかぶり、ゆっくりと手紙を丸めて手提袋に入れていま
すよネ。つまりこのゆっくりした動作が別離を決意した女の行為なんですネ。
 『チーコ』の奥さんが駅の階段を駆け昇っていく場面を思い出してください。先に話し
たように、『チーコ』の奥さんの場合は男に愛想をつかし別れたいと思っても、結局は帰
ってこざるを得ない女、そういった女の階段の昇り方だと言いましたが、カーチャの場合
はまったく違いますよネ。カーチャはもう泣きもしません、わめきもしません、ましてや
「わたしはどうすればいいのです」とも訊いたりしません。〈別離〉は決定的です。決定
的な〈別離〉を覚悟した女が、男とどのように別れていくか、チェーホフはそれを次のよ
うに書きました。

チェーホフの『退屈な話』を授業する(1)

-つげ義春の『チーコ』、スタンバーグの『モロッコ』と関連づけて-

 今日はチェーホフの『退屈な話』について話すゾ。今までずっとドストエフスキーの話をしてきたが、とにかく今日はチェーホフ。前に志賀直哉とドストエフスキーの話をしたが、志賀直哉は現代に蘇ることはまずないと思うが、チェーホフは蘇るナ、絶対に。このあいだ映画『小犬をつれた貴婦人』について話した時に、あのヤルタの海岸に打ち寄せられた空き瓶についてふれたよネ、覚えているかナ。現実に生きる人間の象徴のような気がするネ、あの空き瓶には。穏やかな波間に浮かぶあの一本の空き瓶……沈みもしないが、飛びだすわけでもない。死んでもいないが、しかし決して生きてもいない・・わたしはそんな現代人の生存を〈空き瓶の実存〉と名付けたわけサ。もし単なる〈空き瓶〉だったらサ、ただ存在しているだけ。しかし人間だったらネ、いちおう誰でも、「私はなんで生きているのか?」とか考えるよネ。だから〈空き瓶〉の後に〈実存〉を付けたということ、分かったネ。
 今日、たまたまチェーホフ論のあとがきを書きおえたんだ。今年はチェーホフの没後百年でネ、その記念にチェーホフ論を出そうと思って去年の九月から毎日書き進めてきたんです。『小犬をつれた貴婦人』『かわいい女』『六号室』『黒衣の僧』って批評してきてネ、昨日『退屈な話』について書きおえて、今日は江古田のシャノアールで「あとがき」を書いて、それから大学に来たってわけダ。それで新鮮なうちに話しておこうと思ってネ、今日はまず『退屈な話』について話す。


 『退屈な話』はロシア語で『Скучная история』といって、скучнаяはскучныйの女性形で「退屈な」とか「詰まらない」とか「面白くない」とかいう意味がある。今回、わたしが批評するにあたってテキストにしたのは池田健太郎の訳で『わびしい話』となっている。彼はскучнаяを「わびしい」と訳したわけだけど
、わたしは敢えて「退屈な」にした。なにしろチェーホフはかなりイロニーのきいた小説家として知られているように、自分の書いた「詰まらない話」「退屈な話」が実に「面白い話」、少しも「退屈しない話」であるということを証明したかったわけだからネ、はじめから「わびしい話」なんていうように訳したら、そのまんまになってしまうということです。
 さて、今日は『退屈な話』のすべてを語るつもりはない。まず、今日はつげ義春の『チーコ』について話します。『チーコ』については「マンガ論」や「雑誌研究」の授業でもとりあげたので、すでにわたしの話を聞いたひともいるでしょう。聞いたことのあるひと? あれ三人ですか。それじゃ大半のひとが聞いていないのか。『チーコ』を読んだことのあるひと? あれ、ほとんど読んでいないの。それじゃ仕方ない、テキスト持ってきますから、少し待っていて下さい。

 〔三分後〕それでは『チーコ』について話します。時間の関係で急ぎます。『チーコ』の奥さんは、一度堕胎した経験があるというのが、わたしの見解です。こういった見解、解釈は、テキストの解体と再構築によってなされます。いいですネ、テキストの解体というのは破壊ではないですヨ、破壊してしまったら復元できませんからネ。奥さんはここで「私いいもの見つけちゃった」と言ってますネ。その時この男、芸術漫画をめざして貧しいながら頑張っている男がですネ、「何を?」って聞き返しています。あ、君〔前列三番目に坐って聞いている女性受講者に〕、この奥さんのセリフを隣のタクサガワノヴィチ〔或る男子学生にわたしがつけたロシア風名前〕に向かって言って下さい。
 「私いいもの見つけちゃった」、はいタクサガワノヴィチ答えて下さいヨ。
 「何を?」・・なるほどネ。
 じゃ今度はハルーナさん、タクサガワノヴィチに向かって奥さんのセリフを言って下さい。タクサガワノヴィチはアドリブでテキストの男のセリフではない、自分の言葉を発して下さいネ。
 「私いいもの見つけちゃった」
 「だから?」・・なるほどネ、タクサガワノヴィチ、少し冷たくはないかネ。
 いいですか。この男は作者つげ義春の青年時代を反映していると見ることができます。
漫画は単なる女子供向けの娯楽、消耗品であってはならない、漫画もまた文学作品のように芸術としての表現でなければならない、まあそんなふうに真剣に漫画について考えていたことがつげさんにもあったわけです。尤も、こんなことをつげさんに確かめたら「べつにどうでもいいんですが……」なんて言われるでしょうがネ。
 男は自分に稼ぎがないんで、奥さん(まあ、二人は結婚しているのか、単に同棲しているのかはっきりとは書かれていませんが、紛らわしいのでここでは奥さんと言っておきますネ)に水商売の仕事をさせているわけです。男は自分の仕事に情熱を傾けていますが、奥さんにしてみれば、好きな男と、貧しくても幸福な生活ができればいいわけです。そんなある日、彼女は身ごもった。好きな男の子供を身ごもったわけですから、こんな幸福なことはなかったでしょうネ。おそらく駅前かどこかの産婦人科へ行って、妊娠を告げられたとき、彼女は嬉しかったと思います。それで、このセリフになるんです「私いいもの見つけちゃった」とネ。つまりこのセリフには妊娠を告げる喜びの言葉「私、あなたの子供ができちゃった」がダブっているんです。ところが、男は何といいました。「何を?」ですよ。奥さんが甘えた感じで「ねえ買ってもいいでしょう」と言った時にも「だから何を?」ですヨ。
 いいかい、この男はこういう言い方しかできないけれども、違った言い方だってできるんですヨ。それではハルーナさん、わたしにむかって奥さんのセリフをもう一度行ってみて下さい。
 「私いいもの見つけちゃった」
 「そりゃよかったね」
 「ねえ買ってもいいでしょう」
 「いいよ」
 ・・こういう言い方もできるわけです。いいですか、先ほど言ったように、奥さんは一度堕胎したことがあるという解釈を踏まえてこの場面を見るとですネ、この男は奥さんに対してかなり残酷なことを言っていることになります。奥さんにしてみれば『私はあなたの子供が欲しかった。けれどあなたは子供を生むことを願わなかった。私たちには子供を育てる経済的余裕もない。それで私は仕方なく自分で決断して子供をおろした。だから子供の代わりに、せめて文鳥のヒナを買いたいと言っているのに、あなたは文鳥なんか飼ってどうするんだい、などと無神経なことばっかり言っている。ああホントに嫌になってしまう』ということだヨ。
 いいかい、この男の特徴というのはサ。子供が出来た時にも、文鳥のヒナを買うときでも、決してはっきりと自分の意見を言っていないということなんだ。子供をおろせ、とも言っていないし、もちろん産めと言っていない。だから、奥さんは自分一人で決断したんだヨ。ほら、次のページをごらんなさい。奥さんが仕事に出掛ける時間になってふたりで駅まで行くけど、その間、男は文鳥のヒナを買っていいとも、いけないとも言ってないでしょう。なんかあいまいなままに、奥さんの意思が通ったという感じでヒナが買われるわけです。
 それでいいですか、今日話したいことはこの、奥さんが男に見送られて駅の階段を昇っていく場面です。つげさんは奥さんの足元を描いています。そしてタタタタと手書き文字を書き入れています。男は黙って奥さんの後ろ姿を見送っています。ふつうに読んでいるだけでは別になんていうことのない場面ですよネ。おそらく男は、いつものように奥さんを見送っていたのでしょうし、話の流れから見れば、駅前の鳥屋で時間をくってしまった分、奥さんは先を急いでいた、だから間に合うように階段を急いで駆け昇っていった、とまあこのように読み取るわけですネ。しかしつげ義春という漫画家はそんな単純な作家ではないんです。

 いいですか、奥さんのこの階段のタタタタという昇り方の中にですネ、彼女の男に対す
るすべての思いがこめられているんですヨ。私はあなたの子供を生みたかった、けれど貴
方の意を酌んで堕胎した、だからせめて文鳥のヒナを飼ってもいいでしょう、と甘えて頼
んでいるのに、「鳥なんか飼ってどうするんだい」ですからネ。奥さんにしてみればこん
な無神経な思いやりのない男とこれ以上一緒に生活するなんてできないと思って、もう二
度とおまえの顔など見たくない、そう思っているんです。しかし、しかしですよ、奥さん
は同時に自分が再び男のもとへと帰ってくる、帰ってこざるを得ない自分自身を痛いほど
知っているんです。そういった女の階段の昇り方をつげさんは見事に描いているというわ
けです。
 尤も、つげさんに聞いたところではそこまでは意識していなかったそうですが……。テ
キストの解体と再構築の批評は、いいですか、作者が意識していない領域まで踏み込んで
いくんです。作者が無意識で描いた領域まで突き進んでいかないと批評はダイナミックに
なりませんからネ。作者の意図は……なんて次元で批評を展開してもまったく面白くあり
ません。感性の鈍い、想像力に欠けた、単なる実証的な研究ほど退屈でバカバカしいもの
はないですネ。
 『チーコ』についての講義はこれでおしまいです。興味を持ったひとは、わたしの書い
た『チーコ』論を読みなさい。分かりましたネ、タクサガワノヴィチ。
 さて『退屈な話』ですが、この主人公はニコライ・ステパーノヴィチという六十二歳に
なる大学教授です。三等官という設定ですから、まあ大臣級のお偉いさんです。官等は十
八世紀にピョートル大帝が官位を十四等に分けて設置したんですネ。ゴーゴリやドストエ
フスキーが好んで設定した万年九等官というのは言わばたたき上げの最終地点です。日本
で言えば、まあ万年課長というわけで、もうこれ以上の出世はない。尤も、現代では課長
になるのも難しい、実に厳しい時代を迎えているわけですがネ。
 『退屈な話』はサブタイトルに「ある老人の手記より」とあります。この老人というの
が大学教授のニコライ・ステパーノヴィチです。つまりこの小説はニコライ・ステパーノ
ヴィチの〈手記〉という形をとっています。
 さて授業では、今までずっとドストエフスキーの話をしてきたわけですから、ニコライ
・ステパーノヴィチと言えば何かピンときませんか。ドストエフスキーの『悪霊』を読ん
だことのある人は何人ぐらいいるんでしょう。えっ、三人しかいないの。まあ、いいか。
『悪霊』の中にステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーという男が出て
きます。ステパンはヨーロッパに留学して最新の学問を身につけてロシアに帰還してきん
ですが、大学にちょっと勤めただけで追放されてしまった。この男を息子ニコライの家庭
教師として雇い入れたのがヴァルヴァーラという、広大な領地を有する女地主です。ニコ
ライは後に、つまりこの小説が始まる頃にはかなり虚無的な存在として登場してきますが
、ステパン先生の教え子であった頃はむしろひ弱な腺病質な子供だったんですネ。それで
ニコライが十歳の頃、ステパンは彼と肉体的な関係を結んでしまったんです。いわゆるホ
モセクシャルな関係を結ばれたニコライはそれ以来〈人類永遠のかの憂愁〉をたたえた子
供になってしまいます。
 ドストエフスキーは十九世紀の小説家ですから、まあこういったことは直接的に書きま
せん。分かるものにしか分からないやり方で、通の読者にそっと囁くように知らせるんで
すネ。
 さて、ステパンは女好きの美少年好みでもあったらしいのですが、ヴァルヴァーラの庇
護のもとに好き勝手なことをしまくっています。シャンパンをあおりながら、ロシアとは
、ロシアの神とは、などと、まるでソクラテス気取りでしゃべりまくっていたんですネ。
しかしこのステパンに確固たる理念や哲学があったわけではないんです。言わば彼の内部
は空っぽです。何にもない。虚無というほど立派なもんじゃない。なんかだらしなく空っ
ぽなんですネ。そのくせ、饒舌です。いつの時代でもそうですが、こういった空っぽな雄
弁家に影響される若者はあんがい多いんです。このステパン先生の教え子であったニコラ
イ・スタヴローギンはその犠牲者であったかもしれませんネ。やがて彼もまた虚無の権化
のような男になります。要するに彼は、善悪観念を磨滅させるほどに徹底的に考えた青年
です。彼は自分自身を材料にしていろいろな実験を試みた男ですが、結局確かなものを手
に入れることができなかった。
 ここで『悪霊』について詳しく語ることはしませんヨ。興味のあるひとはわたしの『悪
霊』論三部作を読みなさい、いいですネ、タクサガワノヴィチ。要するにわたしがこの短
い授業時間の中で強調したいのは、『退屈な話』の手記の主体であるニコライ・ステパー
ノヴィチが『悪霊』のステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーとその教
え子であったニコライ・スタヴローギンの名前を受け継いでいるということです。名前の
ニコライはニコライ・スタヴローギンの名前をそのまま、父称のステパーノヴィチはつま
りステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーを意味するのではないかとい
うことです。
 今までチェーホフの文学はドストエフスキーの文学とは対極にあると考えられていまし
たが、チェーホフの作品を詳細に分析してみると、彼がドストエフスキーの文学を熟読し
、自分なりに消化していたことは明白です。中途半端な小説家は影響を露骨にだしますが
、チェーホフの場合はその影響の跡がなかなか発見できないほどに消化しているというこ
とですネ。それにドストエフスキーを好きな評論家がチェーホフについてはあまり発言し
てこなかったということもあります。
 さて、わたしが今日、問題にしたいのは『退屈な話』の最後のほうに出てくるカーチャ
とニコライ・ステパーノヴィチの関係についてです。カーチャというのはニコライ・ステ
パーノヴィチの養女です。同僚の眼科医が死んで一人娘のカーチャ、当時七、八歳であっ
たんですが、彼女をニコライ・ステパーノヴィチが引き取ることになったわけです。二人
の歳の差は三十七歳です。養父と養女、いわば先生と教え子のような関係でもあったわけ
ですから、二人の間にまさか男と女の関係があったなんてふつうの読者なら絶対に詮索な
どしないところです。わたしもはじめはそう読んだ読者の一人です。ところが、十九世紀
のロシア文学というのは、ツァー(皇帝)専制下、厳しい検閲制度のもとにあって、露骨
な性描写など許されていなかった。ですからドストエフスキーもトルストイも男と女の具
体的な性関係を描写することはなかった。しかしです。彼ら世界の文豪は描かずして描く
という手法を開発します。例えば『罪と罰』の話を思い出して下さい。この小説は日本語
訳にすると千枚以上の長編ですが、設定された時間は非常に短い。十三日間の物語で、し
かも主人公のラスコーリニコフは四日間ぐらい意識不明であったりしますから、実際的に
は一週間ぐらいに起きた出来事を追っています。まあ、少し厳密な言い方をすれば、ラス
コーリニコフの過去が描かれていたりしますから、単純に一週間の物語とは言えないとこ
ろもありますがネ。しかし今日はそんな厳密に『罪と罰』を批評しようなどとは思ってい
ません。詳しいことを知りたいひとはわたしの『ドストエフスキー「罪と罰」の世界』を
熟読しなさい、いいですネ、タクサガワノヴィチ。
 話を元に戻しましょう。とにかく十九世紀の文豪たちにはセックス描写は許されていな
かったのです。しかし、今度のチェーホフ論『チェーホフを読め・・空虚な実存の孤独と
倦怠・・』にも書きましたが、ドストエフスキーの『罪と罰』なんか、いたるところに描
かれざる〈セックス描写〉が隠されているんです。一度読んだぐらいで「『罪と罰』って
ステキ」なんて言っている女子学生が毎年五人はいますが、しかし彼女たちのうちで誰一
人ラズミーヒンの〈すけべ〉に気づいたひとはいませんネ。この青年、ラスコーリニコフ
と違ってたいへん逞しい男で、翻訳の仕事などをてきぱきこなして金を稼ぎ、ちゃんと経
済的にも自立して学生生活を送っています。友情にも厚く、ラスコーリニコフが訪ねてく
れば、すぐにバイトを紹介するようなひとのいい好青年ですネ。ですから「わたしラズミ
ーヒンが好き」なんて女性はけっこういます。が、このたくましい好青年、女にかけても
なかなかの発展家で、気にいった女はすぐにものにする。ラスコーリニコフの下宿先を突
き止めた時に、当のラスコーリニコフは意識不明で屋根裏部屋のソファに寝込んでいるが
、そのわずか二、三日の間に下宿の女将プラスコーヴィヤといい仲(男と女の関係)にな
っています。
 が、二十歳前後の若い学生にそこまで読み取る力はない。それでそのことを指摘してや
ると、とつぜんラズミーヒン人気が下落したりします。まあ、あれですネ、ラスコーリニ
コフの妹ドゥーニャ、彼女はルージンと婚約してペテルブルクに母親のプリヘーリヤとや
ってくるわけですが、この美しいドゥーニャがラズミーヒンと結婚することになる・・わ
たしなどはホントいやになってしまいますヨ。なんでまたラズミーヒンなんですかネ。や
はりドゥーニャにはスヴィドリガイロフあたりを手玉にとってもらいたかったわけですが
、わたしから言わせるとあまり面白くない男と結婚してしまった。
 話を元に戻しましょう。『罪と罰』でなんと言っても描かれざる最大の〈濡れ場〉はソ
ーニャと最初の男の関係ですよネ。ソーニャの最初の男は誰か? 二十年も前のゼミでず
いぶん盛り上がったテーマですが、要するにソーニャの処女を買ったのは、あの酔漢マル
メラードフがペテルブルクじゅうで知らない者がないほど〈善良な人〉と吹聴したあのイ
ヴァン閣下ですネ。ソーニャの最初の相手の顔がはっきりすれば、彼ら二人の性的関係な
ど一行も描かれていなくとも、読者が想像力を働かせさえすれば鮮明に浮上してきます。
その他、スヴィドリガイロフとドゥーニャの関係とか、プラスコーヴィヤとチェヴァーロ
フ、ラスコーリニコフとナタリアおよびソーニャの関係など、描かれてはいないが、想像
すれば想像できる〈男と女〉の関係の場面はたくさんあります。まあ、きりがないのでこ
れぐらいにしておきましょう。詳しいことを知りたいひとは私が書いた『宮沢賢治とドス
トエフスキー』を読みなさい、いいですねシンタロウ君。
 さて『退屈な話』ですが、ニコライ・ステパーノヴィチがハリコフにやってきます。な
ぜやってきたのか。それは彼の一人娘リーザが好きになって結婚したいと思っているグネ
ッケルという男がハリコフに大きな屋敷と領地を持っているなどと言いふらしていたもの
だから、妻のワーリャが夫にハリコフに行ってくれと頼んでいたんです。ニコライ・ステ
パーノヴィチはどうもグネッケルが気にいらない。とにかく彼のすることなすことすべて
が気に入らずいらいらのし通しだったんです。しかし余命いくばくもない老教授は老妻の
言うことをきいてはるばるハリコフまでやってきたわけです。それでホテルに泊まって、
ハリコフ生まれの老ボーイにグネッケルのことを聞きます。するとそのボーイはグネッケ
ルなどという名前の屋敷は当地にはないし、そんな領地もないと断言します。まあ、ここ
だけ読めば、グネッケルは何か詐欺師みたいな男の印象が強いわけですが、チェーホフは
はっきりと書いていません。
 そうこうするうちに、娘のリーザが秘密に結婚式をあげてしまったという電報が老妻か
ら届きます。ニコライ・ステパーノヴィチはその電報を読んで愕然とします。が、その愕
然は娘の挙式ではないんです。彼はそのことに〈無関心〉の反応しか示せなかったことに
愕然とするんです。
 それでまたそうこうするうちにワーリャがニコライ・ステパーノヴィチのホテルに訪ね
て来ます。やはり老教授ニコライの〈手記〉とは言ってもチェーホフが作っている〈小説
〉てすからネ、次々に新たな出来事が向こうからやって来るというわけです。
 さて、いよいよわたしが言いたい山場です。ワーリャはニコライ・ステパーノヴィチが
病気で、あと何ヵ月しか生きられないということを知っています。まあ、知っているかど
うかははっきりとは書かれてはいませんが、それ位のことを察する感性がなければはじめ
からお話になりません。カーチャは執拗に「わたしはどうしたらいいんです?」と詰め寄
ります。この言葉は、人生の指針を老教授に求めているように聞こえないことはないです
よネ、というよりかそのように受け取られてきたわけです。しかし、いいですか、タクサ
ガワノヴィチ。若い女が、男に向かってこのようなセリフを何回も執拗に、ヒステリック
に、叫ぶように問うということは尋常ではないですよネ。
 チェーホフはさりげなく書いています。カーチャが手提袋からハンカチを取り出そうと
したとき、何通かの手紙が床に落ちてしまう。手紙を拾い上げたニコライ・ステパーノヴ
ィチは、筆跡でそれが同僚の文献学者ミハイルがワーリャ宛に出した熱愛の手紙であるこ
とを察します。この文献学者は五十年輩の教授で、毎日のようにカーチャの家を訪れては
大学内のことで毒舌を発揮していた男で、カーチャとはその点でも気が合っていたように
書かれていました。しかし、今、なぜカーチャがわざわざハリコフにまでニコライ・ステ
パーノヴィチを訪ねて「わたしはどうすればいいんです?」などと問いただしているのか
と言えば、それはつまりカーチャがニコライ・ステパーノヴィチを誰よりも愛していたか
らにほかならないでしょう。『わたしはミハイルに熱愛されている、ほらこんなにたくさ
んの熱烈な手紙を貰っている、しかし、しかしわたしが誰よりも愛しているのはあなた、
ニコライ・ステパーノヴィチなのです、いったいわたしはどうしたらいいんです?』まあ
、カーチャの内心を代弁すれぱこういうことになります。
 ところがニコライ・ステパーノヴィチはそのカーチャの心を知ってか知らずか、完璧に
はぐらかして「ほんとうに、カーチャ、わからないんだよ」などとバカなセリフを吐いて
います。が、カーチャはそんな言葉を耳にするためにわざわざハリコフまでやってきたわ
けではないですからネ、泣きながら執拗に食い下がります。するとニコライ・ステパーノ
ヴィチは「朝御飯でも食べよう」なんて、さらに間抜けなことを口にします。彼は「わし
はもうすぐ死ぬよ」とまで告白しています。カーチャはいっさいそんなことに耳をかしま
せん。当たり前ですよネ、カーチャはニコライ・ステパーノヴィチと朝御飯を食べるため
にハリコフまでやってきたわけではないんですから。カーチャは愛する、誰よりも愛する
ニコライ・ステパーノヴィチの、自分の思いと同じ思いの言葉を聞きたかった、ただその
ひと言を聞くためにすべてを捨ててハリコフにやってきたんです。
 しかし、ついにニコライ・ステパーノヴィチからその言葉を引き出すことはできなかっ
た。沈黙が訪れます。この沈黙のなかでカーチャは決定的に変わります。泣きじゃくりな
がら愛の言葉をおねだりする女から、断念した女、ニコライ・ステパーノヴィチに愛想を
つかした女に変貌します。ニコライ・ステパーノヴィチ、いやチェーホフはその変貌した
女カーチャを次のように書いています。いいですか、タクサガワノヴィチ、この場面は恐
ろしいですヨ。ちょっと読んでみますから、よく聞いてくださいヨ。

 沈黙が訪れる。カーチャは髪を直して帽子をかぶり、それから手紙を丸めて手提袋へ突
込む。・・これらの動作は、黙ったままゆっくり行われる。顔も胸も手袋も涙でぬれてい
るが、表情はもう乾いていて、きびしい。

 どうですか、わたしが言わんとしていることが分かりますか。このときカーチャはゆっ
くりと髪を直し、ゆっくりと帽子をかぶり、ゆっくりと手紙を丸めて手提袋に入れていま
すよネ。つまりこのゆっくりした動作が別離を決意した女の行為なんですネ。
 『チーコ』の奥さんが駅の階段を駆け昇っていく場面を思い出してください。先に話し
たように、『チーコ』の奥さんの場合は男に愛想をつかし別れたいと思っても、結局は帰
ってこざるを得ない女、そういった女の階段の昇り方だと言いましたが、カーチャの場合
はまったく違いますよネ。カーチャはもう泣きもしません、わめきもしません、ましてや
「わたしはどうすればいいのです」とも訊いたりしません。〈別離〉は決定的です。決定
的な〈別離〉を覚悟した女が、男とどのように別れていくか、チェーホフはそれを次のよ
うに書きました。

チェーホフの『退屈な話』を授業する(1)

-つげ義春の『チーコ』、スタンバーグの『モロッコ』と関連づけて-

 今日はチェーホフの『退屈な話』について話すゾ。今までずっとドストエフスキーの話をしてきたが、とにかく今日はチェーホフ。前に志賀直哉とドストエフスキーの話をしたが、志賀直哉は現代に蘇ることはまずないと思うが、チェーホフは蘇るナ、絶対に。このあいだ映画『小犬をつれた貴婦人』について話した時に、あのヤルタの海岸に打ち寄せられた空き瓶についてふれたよネ、覚えているかナ。現実に生きる人間の象徴のような気がするネ、あの空き瓶には。穏やかな波間に浮かぶあの一本の空き瓶……沈みもしないが、飛びだすわけでもない。死んでもいないが、しかし決して生きてもいない・・わたしはそんな現代人の生存を〈空き瓶の実存〉と名付けたわけサ。もし単なる〈空き瓶〉だったらサ、ただ存在しているだけ。しかし人間だったらネ、いちおう誰でも、「私はなんで生きているのか?」とか考えるよネ。だから〈空き瓶〉の後に〈実存〉を付けたということ、分かったネ。
 今日、たまたまチェーホフ論のあとがきを書きおえたんだ。今年はチェーホフの没後百年でネ、その記念にチェーホフ論を出そうと思って去年の九月から毎日書き進めてきたんです。『小犬をつれた貴婦人』『かわいい女』『六号室』『黒衣の僧』って批評してきてネ、昨日『退屈な話』について書きおえて、今日は江古田のシャノアールで「あとがき」を書いて、それから大学に来たってわけダ。それで新鮮なうちに話しておこうと思ってネ、今日はまず『退屈な話』について話す。


 『退屈な話』はロシア語で『Скучная история』といって、скучнаяはскучныйの女性形で「退屈な」とか「詰まらない」とか「面白くない」とかいう意味がある。今回、わたしが批評するにあたってテキストにしたのは池田健太郎の訳で『わびしい話』となっている。彼はскучнаяを「わびしい」と訳したわけだけど
、わたしは敢えて「退屈な」にした。なにしろチェーホフはかなりイロニーのきいた小説家として知られているように、自分の書いた「詰まらない話」「退屈な話」が実に「面白い話」、少しも「退屈しない話」であるということを証明したかったわけだからネ、はじめから「わびしい話」なんていうように訳したら、そのまんまになってしまうということです。
 さて、今日は『退屈な話』のすべてを語るつもりはない。まず、今日はつげ義春の『チーコ』について話します。『チーコ』については「マンガ論」や「雑誌研究」の授業でもとりあげたので、すでにわたしの話を聞いたひともいるでしょう。聞いたことのあるひと? あれ三人ですか。それじゃ大半のひとが聞いていないのか。『チーコ』を読んだことのあるひと? あれ、ほとんど読んでいないの。それじゃ仕方ない、テキスト持ってきますから、少し待っていて下さい。

 〔三分後〕それでは『チーコ』について話します。時間の関係で急ぎます。『チーコ』の奥さんは、一度堕胎した経験があるというのが、わたしの見解です。こういった見解、解釈は、テキストの解体と再構築によってなされます。いいですネ、テキストの解体というのは破壊ではないですヨ、破壊してしまったら復元できませんからネ。奥さんはここで「私いいもの見つけちゃった」と言ってますネ。その時この男、芸術漫画をめざして貧しいながら頑張っている男がですネ、「何を?」って聞き返しています。あ、君〔前列三番目に坐って聞いている女性受講者に〕、この奥さんのセリフを隣のタクサガワノヴィチ〔或る男子学生にわたしがつけたロシア風名前〕に向かって言って下さい。
 「私いいもの見つけちゃった」、はいタクサガワノヴィチ答えて下さいヨ。
 「何を?」・・なるほどネ。
 じゃ今度はハルーナさん、タクサガワノヴィチに向かって奥さんのセリフを言って下さい。タクサガワノヴィチはアドリブでテキストの男のセリフではない、自分の言葉を発して下さいネ。
 「私いいもの見つけちゃった」
 「だから?」・・なるほどネ、タクサガワノヴィチ、少し冷たくはないかネ。
 いいですか。この男は作者つげ義春の青年時代を反映していると見ることができます。
漫画は単なる女子供向けの娯楽、消耗品であってはならない、漫画もまた文学作品のように芸術としての表現でなければならない、まあそんなふうに真剣に漫画について考えていたことがつげさんにもあったわけです。尤も、こんなことをつげさんに確かめたら「べつにどうでもいいんですが……」なんて言われるでしょうがネ。
 男は自分に稼ぎがないんで、奥さん(まあ、二人は結婚しているのか、単に同棲しているのかはっきりとは書かれていませんが、紛らわしいのでここでは奥さんと言っておきますネ)に水商売の仕事をさせているわけです。男は自分の仕事に情熱を傾けていますが、奥さんにしてみれば、好きな男と、貧しくても幸福な生活ができればいいわけです。そんなある日、彼女は身ごもった。好きな男の子供を身ごもったわけですから、こんな幸福なことはなかったでしょうネ。おそらく駅前かどこかの産婦人科へ行って、妊娠を告げられたとき、彼女は嬉しかったと思います。それで、このセリフになるんです「私いいもの見つけちゃった」とネ。つまりこのセリフには妊娠を告げる喜びの言葉「私、あなたの子供ができちゃった」がダブっているんです。ところが、男は何といいました。「何を?」ですよ。奥さんが甘えた感じで「ねえ買ってもいいでしょう」と言った時にも「だから何を?」ですヨ。
 いいかい、この男はこういう言い方しかできないけれども、違った言い方だってできるんですヨ。それではハルーナさん、わたしにむかって奥さんのセリフをもう一度行ってみて下さい。
 「私いいもの見つけちゃった」
 「そりゃよかったね」
 「ねえ買ってもいいでしょう」
 「いいよ」
 ・・こういう言い方もできるわけです。いいですか、先ほど言ったように、奥さんは一度堕胎したことがあるという解釈を踏まえてこの場面を見るとですネ、この男は奥さんに対してかなり残酷なことを言っていることになります。奥さんにしてみれば『私はあなたの子供が欲しかった。けれどあなたは子供を生むことを願わなかった。私たちには子供を育てる経済的余裕もない。それで私は仕方なく自分で決断して子供をおろした。だから子供の代わりに、せめて文鳥のヒナを買いたいと言っているのに、あなたは文鳥なんか飼ってどうするんだい、などと無神経なことばっかり言っている。ああホントに嫌になってしまう』ということだヨ。
 いいかい、この男の特徴というのはサ。子供が出来た時にも、文鳥のヒナを買うときでも、決してはっきりと自分の意見を言っていないということなんだ。子供をおろせ、とも言っていないし、もちろん産めと言っていない。だから、奥さんは自分一人で決断したんだヨ。ほら、次のページをごらんなさい。奥さんが仕事に出掛ける時間になってふたりで駅まで行くけど、その間、男は文鳥のヒナを買っていいとも、いけないとも言ってないでしょう。なんかあいまいなままに、奥さんの意思が通ったという感じでヒナが買われるわけです。
 それでいいですか、今日話したいことはこの、奥さんが男に見送られて駅の階段を昇っていく場面です。つげさんは奥さんの足元を描いています。そしてタタタタと手書き文字を書き入れています。男は黙って奥さんの後ろ姿を見送っています。ふつうに読んでいるだけでは別になんていうことのない場面ですよネ。おそらく男は、いつものように奥さんを見送っていたのでしょうし、話の流れから見れば、駅前の鳥屋で時間をくってしまった分、奥さんは先を急いでいた、だから間に合うように階段を急いで駆け昇っていった、とまあこのように読み取るわけですネ。しかしつげ義春という漫画家はそんな単純な作家ではないんです。

 いいですか、奥さんのこの階段のタタタタという昇り方の中にですネ、彼女の男に対す
るすべての思いがこめられているんですヨ。私はあなたの子供を生みたかった、けれど貴
方の意を酌んで堕胎した、だからせめて文鳥のヒナを飼ってもいいでしょう、と甘えて頼
んでいるのに、「鳥なんか飼ってどうするんだい」ですからネ。奥さんにしてみればこん
な無神経な思いやりのない男とこれ以上一緒に生活するなんてできないと思って、もう二
度とおまえの顔など見たくない、そう思っているんです。しかし、しかしですよ、奥さん
は同時に自分が再び男のもとへと帰ってくる、帰ってこざるを得ない自分自身を痛いほど
知っているんです。そういった女の階段の昇り方をつげさんは見事に描いているというわ
けです。
 尤も、つげさんに聞いたところではそこまでは意識していなかったそうですが……。テ
キストの解体と再構築の批評は、いいですか、作者が意識していない領域まで踏み込んで
いくんです。作者が無意識で描いた領域まで突き進んでいかないと批評はダイナミックに
なりませんからネ。作者の意図は……なんて次元で批評を展開してもまったく面白くあり
ません。感性の鈍い、想像力に欠けた、単なる実証的な研究ほど退屈でバカバカしいもの
はないですネ。
 『チーコ』についての講義はこれでおしまいです。興味を持ったひとは、わたしの書い
た『チーコ』論を読みなさい。分かりましたネ、タクサガワノヴィチ。
 さて『退屈な話』ですが、この主人公はニコライ・ステパーノヴィチという六十二歳に
なる大学教授です。三等官という設定ですから、まあ大臣級のお偉いさんです。官等は十
八世紀にピョートル大帝が官位を十四等に分けて設置したんですネ。ゴーゴリやドストエ
フスキーが好んで設定した万年九等官というのは言わばたたき上げの最終地点です。日本
で言えば、まあ万年課長というわけで、もうこれ以上の出世はない。尤も、現代では課長
になるのも難しい、実に厳しい時代を迎えているわけですがネ。
 『退屈な話』はサブタイトルに「ある老人の手記より」とあります。この老人というの
が大学教授のニコライ・ステパーノヴィチです。つまりこの小説はニコライ・ステパーノ
ヴィチの〈手記〉という形をとっています。
 さて授業では、今までずっとドストエフスキーの話をしてきたわけですから、ニコライ
・ステパーノヴィチと言えば何かピンときませんか。ドストエフスキーの『悪霊』を読ん
だことのある人は何人ぐらいいるんでしょう。えっ、三人しかいないの。まあ、いいか。
『悪霊』の中にステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーという男が出て
きます。ステパンはヨーロッパに留学して最新の学問を身につけてロシアに帰還してきん
ですが、大学にちょっと勤めただけで追放されてしまった。この男を息子ニコライの家庭
教師として雇い入れたのがヴァルヴァーラという、広大な領地を有する女地主です。ニコ
ライは後に、つまりこの小説が始まる頃にはかなり虚無的な存在として登場してきますが
、ステパン先生の教え子であった頃はむしろひ弱な腺病質な子供だったんですネ。それで
ニコライが十歳の頃、ステパンは彼と肉体的な関係を結んでしまったんです。いわゆるホ
モセクシャルな関係を結ばれたニコライはそれ以来〈人類永遠のかの憂愁〉をたたえた子
供になってしまいます。
 ドストエフスキーは十九世紀の小説家ですから、まあこういったことは直接的に書きま
せん。分かるものにしか分からないやり方で、通の読者にそっと囁くように知らせるんで
すネ。
 さて、ステパンは女好きの美少年好みでもあったらしいのですが、ヴァルヴァーラの庇
護のもとに好き勝手なことをしまくっています。シャンパンをあおりながら、ロシアとは
、ロシアの神とは、などと、まるでソクラテス気取りでしゃべりまくっていたんですネ。
しかしこのステパンに確固たる理念や哲学があったわけではないんです。言わば彼の内部
は空っぽです。何にもない。虚無というほど立派なもんじゃない。なんかだらしなく空っ
ぽなんですネ。そのくせ、饒舌です。いつの時代でもそうですが、こういった空っぽな雄
弁家に影響される若者はあんがい多いんです。このステパン先生の教え子であったニコラ
イ・スタヴローギンはその犠牲者であったかもしれませんネ。やがて彼もまた虚無の権化
のような男になります。要するに彼は、善悪観念を磨滅させるほどに徹底的に考えた青年
です。彼は自分自身を材料にしていろいろな実験を試みた男ですが、結局確かなものを手
に入れることができなかった。
 ここで『悪霊』について詳しく語ることはしませんヨ。興味のあるひとはわたしの『悪
霊』論三部作を読みなさい、いいですネ、タクサガワノヴィチ。要するにわたしがこの短
い授業時間の中で強調したいのは、『退屈な話』の手記の主体であるニコライ・ステパー
ノヴィチが『悪霊』のステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーとその教
え子であったニコライ・スタヴローギンの名前を受け継いでいるということです。名前の
ニコライはニコライ・スタヴローギンの名前をそのまま、父称のステパーノヴィチはつま
りステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーを意味するのではないかとい
うことです。
 今までチェーホフの文学はドストエフスキーの文学とは対極にあると考えられていまし
たが、チェーホフの作品を詳細に分析してみると、彼がドストエフスキーの文学を熟読し
、自分なりに消化していたことは明白です。中途半端な小説家は影響を露骨にだしますが
、チェーホフの場合はその影響の跡がなかなか発見できないほどに消化しているというこ
とですネ。それにドストエフスキーを好きな評論家がチェーホフについてはあまり発言し
てこなかったということもあります。
 さて、わたしが今日、問題にしたいのは『退屈な話』の最後のほうに出てくるカーチャ
とニコライ・ステパーノヴィチの関係についてです。カーチャというのはニコライ・ステ
パーノヴィチの養女です。同僚の眼科医が死んで一人娘のカーチャ、当時七、八歳であっ
たんですが、彼女をニコライ・ステパーノヴィチが引き取ることになったわけです。二人
の歳の差は三十七歳です。養父と養女、いわば先生と教え子のような関係でもあったわけ
ですから、二人の間にまさか男と女の関係があったなんてふつうの読者なら絶対に詮索な
どしないところです。わたしもはじめはそう読んだ読者の一人です。ところが、十九世紀
のロシア文学というのは、ツァー(皇帝)専制下、厳しい検閲制度のもとにあって、露骨
な性描写など許されていなかった。ですからドストエフスキーもトルストイも男と女の具
体的な性関係を描写することはなかった。しかしです。彼ら世界の文豪は描かずして描く
という手法を開発します。例えば『罪と罰』の話を思い出して下さい。この小説は日本語
訳にすると千枚以上の長編ですが、設定された時間は非常に短い。十三日間の物語で、し
かも主人公のラスコーリニコフは四日間ぐらい意識不明であったりしますから、実際的に
は一週間ぐらいに起きた出来事を追っています。まあ、少し厳密な言い方をすれば、ラス
コーリニコフの過去が描かれていたりしますから、単純に一週間の物語とは言えないとこ
ろもありますがネ。しかし今日はそんな厳密に『罪と罰』を批評しようなどとは思ってい
ません。詳しいことを知りたいひとはわたしの『ドストエフスキー「罪と罰」の世界』を
熟読しなさい、いいですネ、タクサガワノヴィチ。
 話を元に戻しましょう。とにかく十九世紀の文豪たちにはセックス描写は許されていな
かったのです。しかし、今度のチェーホフ論『チェーホフを読め・・空虚な実存の孤独と
倦怠・・』にも書きましたが、ドストエフスキーの『罪と罰』なんか、いたるところに描
かれざる〈セックス描写〉が隠されているんです。一度読んだぐらいで「『罪と罰』って
ステキ」なんて言っている女子学生が毎年五人はいますが、しかし彼女たちのうちで誰一
人ラズミーヒンの〈すけべ〉に気づいたひとはいませんネ。この青年、ラスコーリニコフ
と違ってたいへん逞しい男で、翻訳の仕事などをてきぱきこなして金を稼ぎ、ちゃんと経
済的にも自立して学生生活を送っています。友情にも厚く、ラスコーリニコフが訪ねてく
れば、すぐにバイトを紹介するようなひとのいい好青年ですネ。ですから「わたしラズミ
ーヒンが好き」なんて女性はけっこういます。が、このたくましい好青年、女にかけても
なかなかの発展家で、気にいった女はすぐにものにする。ラスコーリニコフの下宿先を突
き止めた時に、当のラスコーリニコフは意識不明で屋根裏部屋のソファに寝込んでいるが
、そのわずか二、三日の間に下宿の女将プラスコーヴィヤといい仲(男と女の関係)にな
っています。
 が、二十歳前後の若い学生にそこまで読み取る力はない。それでそのことを指摘してや
ると、とつぜんラズミーヒン人気が下落したりします。まあ、あれですネ、ラスコーリニ
コフの妹ドゥーニャ、彼女はルージンと婚約してペテルブルクに母親のプリヘーリヤとや
ってくるわけですが、この美しいドゥーニャがラズミーヒンと結婚することになる・・わ
たしなどはホントいやになってしまいますヨ。なんでまたラズミーヒンなんですかネ。や
はりドゥーニャにはスヴィドリガイロフあたりを手玉にとってもらいたかったわけですが
、わたしから言わせるとあまり面白くない男と結婚してしまった。
 話を元に戻しましょう。『罪と罰』でなんと言っても描かれざる最大の〈濡れ場〉はソ
ーニャと最初の男の関係ですよネ。ソーニャの最初の男は誰か? 二十年も前のゼミでず
いぶん盛り上がったテーマですが、要するにソーニャの処女を買ったのは、あの酔漢マル
メラードフがペテルブルクじゅうで知らない者がないほど〈善良な人〉と吹聴したあのイ
ヴァン閣下ですネ。ソーニャの最初の相手の顔がはっきりすれば、彼ら二人の性的関係な
ど一行も描かれていなくとも、読者が想像力を働かせさえすれば鮮明に浮上してきます。
その他、スヴィドリガイロフとドゥーニャの関係とか、プラスコーヴィヤとチェヴァーロ
フ、ラスコーリニコフとナタリアおよびソーニャの関係など、描かれてはいないが、想像
すれば想像できる〈男と女〉の関係の場面はたくさんあります。まあ、きりがないのでこ
れぐらいにしておきましょう。詳しいことを知りたいひとは私が書いた『宮沢賢治とドス
トエフスキー』を読みなさい、いいですねシンタロウ君。
 さて『退屈な話』ですが、ニコライ・ステパーノヴィチがハリコフにやってきます。な
ぜやってきたのか。それは彼の一人娘リーザが好きになって結婚したいと思っているグネ
ッケルという男がハリコフに大きな屋敷と領地を持っているなどと言いふらしていたもの
だから、妻のワーリャが夫にハリコフに行ってくれと頼んでいたんです。ニコライ・ステ
パーノヴィチはどうもグネッケルが気にいらない。とにかく彼のすることなすことすべて
が気に入らずいらいらのし通しだったんです。しかし余命いくばくもない老教授は老妻の
言うことをきいてはるばるハリコフまでやってきたわけです。それでホテルに泊まって、
ハリコフ生まれの老ボーイにグネッケルのことを聞きます。するとそのボーイはグネッケ
ルなどという名前の屋敷は当地にはないし、そんな領地もないと断言します。まあ、ここ
だけ読めば、グネッケルは何か詐欺師みたいな男の印象が強いわけですが、チェーホフは
はっきりと書いていません。
 そうこうするうちに、娘のリーザが秘密に結婚式をあげてしまったという電報が老妻か
ら届きます。ニコライ・ステパーノヴィチはその電報を読んで愕然とします。が、その愕
然は娘の挙式ではないんです。彼はそのことに〈無関心〉の反応しか示せなかったことに
愕然とするんです。
 それでまたそうこうするうちにワーリャがニコライ・ステパーノヴィチのホテルに訪ね
て来ます。やはり老教授ニコライの〈手記〉とは言ってもチェーホフが作っている〈小説
〉てすからネ、次々に新たな出来事が向こうからやって来るというわけです。
 さて、いよいよわたしが言いたい山場です。ワーリャはニコライ・ステパーノヴィチが
病気で、あと何ヵ月しか生きられないということを知っています。まあ、知っているかど
うかははっきりとは書かれてはいませんが、それ位のことを察する感性がなければはじめ
からお話になりません。カーチャは執拗に「わたしはどうしたらいいんです?」と詰め寄
ります。この言葉は、人生の指針を老教授に求めているように聞こえないことはないです
よネ、というよりかそのように受け取られてきたわけです。しかし、いいですか、タクサ
ガワノヴィチ。若い女が、男に向かってこのようなセリフを何回も執拗に、ヒステリック
に、叫ぶように問うということは尋常ではないですよネ。
 チェーホフはさりげなく書いています。カーチャが手提袋からハンカチを取り出そうと
したとき、何通かの手紙が床に落ちてしまう。手紙を拾い上げたニコライ・ステパーノヴ
ィチは、筆跡でそれが同僚の文献学者ミハイルがワーリャ宛に出した熱愛の手紙であるこ
とを察します。この文献学者は五十年輩の教授で、毎日のようにカーチャの家を訪れては
大学内のことで毒舌を発揮していた男で、カーチャとはその点でも気が合っていたように
書かれていました。しかし、今、なぜカーチャがわざわざハリコフにまでニコライ・ステ
パーノヴィチを訪ねて「わたしはどうすればいいんです?」などと問いただしているのか
と言えば、それはつまりカーチャがニコライ・ステパーノヴィチを誰よりも愛していたか
らにほかならないでしょう。『わたしはミハイルに熱愛されている、ほらこんなにたくさ
んの熱烈な手紙を貰っている、しかし、しかしわたしが誰よりも愛しているのはあなた、
ニコライ・ステパーノヴィチなのです、いったいわたしはどうしたらいいんです?』まあ
、カーチャの内心を代弁すれぱこういうことになります。
 ところがニコライ・ステパーノヴィチはそのカーチャの心を知ってか知らずか、完璧に
はぐらかして「ほんとうに、カーチャ、わからないんだよ」などとバカなセリフを吐いて
います。が、カーチャはそんな言葉を耳にするためにわざわざハリコフまでやってきたわ
けではないですからネ、泣きながら執拗に食い下がります。するとニコライ・ステパーノ
ヴィチは「朝御飯でも食べよう」なんて、さらに間抜けなことを口にします。彼は「わし
はもうすぐ死ぬよ」とまで告白しています。カーチャはいっさいそんなことに耳をかしま
せん。当たり前ですよネ、カーチャはニコライ・ステパーノヴィチと朝御飯を食べるため
にハリコフまでやってきたわけではないんですから。カーチャは愛する、誰よりも愛する
ニコライ・ステパーノヴィチの、自分の思いと同じ思いの言葉を聞きたかった、ただその
ひと言を聞くためにすべてを捨ててハリコフにやってきたんです。
 しかし、ついにニコライ・ステパーノヴィチからその言葉を引き出すことはできなかっ
た。沈黙が訪れます。この沈黙のなかでカーチャは決定的に変わります。泣きじゃくりな
がら愛の言葉をおねだりする女から、断念した女、ニコライ・ステパーノヴィチに愛想を
つかした女に変貌します。ニコライ・ステパーノヴィチ、いやチェーホフはその変貌した
女カーチャを次のように書いています。いいですか、タクサガワノヴィチ、この場面は恐
ろしいですヨ。ちょっと読んでみますから、よく聞いてくださいヨ。

 沈黙が訪れる。カーチャは髪を直して帽子をかぶり、それから手紙を丸めて手提袋へ突
込む。・・これらの動作は、黙ったままゆっくり行われる。顔も胸も手袋も涙でぬれてい
るが、表情はもう乾いていて、きびしい。

 どうですか、わたしが言わんとしていることが分かりますか。このときカーチャはゆっ
くりと髪を直し、ゆっくりと帽子をかぶり、ゆっくりと手紙を丸めて手提袋に入れていま
すよネ。つまりこのゆっくりした動作が別離を決意した女の行為なんですネ。
 『チーコ』の奥さんが駅の階段を駆け昇っていく場面を思い出してください。先に話し
たように、『チーコ』の奥さんの場合は男に愛想をつかし別れたいと思っても、結局は帰
ってこざるを得ない女、そういった女の階段の昇り方だと言いましたが、カーチャの場合
はまったく違いますよネ。カーチャはもう泣きもしません、わめきもしません、ましてや
「わたしはどうすればいいのです」とも訊いたりしません。〈別離〉は決定的です。決定
的な〈別離〉を覚悟した女が、男とどのように別れていくか、チェーホフはそれを次のよ
うに書きました。

チェーホフの『退屈な話』を授業する(1)

-つげ義春の『チーコ』、スタンバーグの『モロッコ』と関連づけて-

 今日はチェーホフの『退屈な話』について話すゾ。今までずっとドストエフスキーの話をしてきたが、とにかく今日はチェーホフ。前に志賀直哉とドストエフスキーの話をしたが、志賀直哉は現代に蘇ることはまずないと思うが、チェーホフは蘇るナ、絶対に。このあいだ映画『小犬をつれた貴婦人』について話した時に、あのヤルタの海岸に打ち寄せられた空き瓶についてふれたよネ、覚えているかナ。現実に生きる人間の象徴のような気がするネ、あの空き瓶には。穏やかな波間に浮かぶあの一本の空き瓶……沈みもしないが、飛びだすわけでもない。死んでもいないが、しかし決して生きてもいない・・わたしはそんな現代人の生存を〈空き瓶の実存〉と名付けたわけサ。もし単なる〈空き瓶〉だったらサ、ただ存在しているだけ。しかし人間だったらネ、いちおう誰でも、「私はなんで生きているのか?」とか考えるよネ。だから〈空き瓶〉の後に〈実存〉を付けたということ、分かったネ。
 今日、たまたまチェーホフ論のあとがきを書きおえたんだ。今年はチェーホフの没後百年でネ、その記念にチェーホフ論を出そうと思って去年の九月から毎日書き進めてきたんです。『小犬をつれた貴婦人』『かわいい女』『六号室』『黒衣の僧』って批評してきてネ、昨日『退屈な話』について書きおえて、今日は江古田のシャノアールで「あとがき」を書いて、それから大学に来たってわけダ。それで新鮮なうちに話しておこうと思ってネ、今日はまず『退屈な話』について話す。


 『退屈な話』はロシア語で『Скучная история』といって、скучнаяはскучныйの女性形で「退屈な」とか「詰まらない」とか「面白くない」とかいう意味がある。今回、わたしが批評するにあたってテキストにしたのは池田健太郎の訳で『わびしい話』となっている。彼はскучнаяを「わびしい」と訳したわけだけど
、わたしは敢えて「退屈な」にした。なにしろチェーホフはかなりイロニーのきいた小説家として知られているように、自分の書いた「詰まらない話」「退屈な話」が実に「面白い話」、少しも「退屈しない話」であるということを証明したかったわけだからネ、はじめから「わびしい話」なんていうように訳したら、そのまんまになってしまうということです。
 さて、今日は『退屈な話』のすべてを語るつもりはない。まず、今日はつげ義春の『チーコ』について話します。『チーコ』については「マンガ論」や「雑誌研究」の授業でもとりあげたので、すでにわたしの話を聞いたひともいるでしょう。聞いたことのあるひと? あれ三人ですか。それじゃ大半のひとが聞いていないのか。『チーコ』を読んだことのあるひと? あれ、ほとんど読んでいないの。それじゃ仕方ない、テキスト持ってきますから、少し待っていて下さい。

 〔三分後〕それでは『チーコ』について話します。時間の関係で急ぎます。『チーコ』の奥さんは、一度堕胎した経験があるというのが、わたしの見解です。こういった見解、解釈は、テキストの解体と再構築によってなされます。いいですネ、テキストの解体というのは破壊ではないですヨ、破壊してしまったら復元できませんからネ。奥さんはここで「私いいもの見つけちゃった」と言ってますネ。その時この男、芸術漫画をめざして貧しいながら頑張っている男がですネ、「何を?」って聞き返しています。あ、君〔前列三番目に坐って聞いている女性受講者に〕、この奥さんのセリフを隣のタクサガワノヴィチ〔或る男子学生にわたしがつけたロシア風名前〕に向かって言って下さい。
 「私いいもの見つけちゃった」、はいタクサガワノヴィチ答えて下さいヨ。
 「何を?」・・なるほどネ。
 じゃ今度はハルーナさん、タクサガワノヴィチに向かって奥さんのセリフを言って下さい。タクサガワノヴィチはアドリブでテキストの男のセリフではない、自分の言葉を発して下さいネ。
 「私いいもの見つけちゃった」
 「だから?」・・なるほどネ、タクサガワノヴィチ、少し冷たくはないかネ。
 いいですか。この男は作者つげ義春の青年時代を反映していると見ることができます。
漫画は単なる女子供向けの娯楽、消耗品であってはならない、漫画もまた文学作品のように芸術としての表現でなければならない、まあそんなふうに真剣に漫画について考えていたことがつげさんにもあったわけです。尤も、こんなことをつげさんに確かめたら「べつにどうでもいいんですが……」なんて言われるでしょうがネ。
 男は自分に稼ぎがないんで、奥さん(まあ、二人は結婚しているのか、単に同棲しているのかはっきりとは書かれていませんが、紛らわしいのでここでは奥さんと言っておきますネ)に水商売の仕事をさせているわけです。男は自分の仕事に情熱を傾けていますが、奥さんにしてみれば、好きな男と、貧しくても幸福な生活ができればいいわけです。そんなある日、彼女は身ごもった。好きな男の子供を身ごもったわけですから、こんな幸福なことはなかったでしょうネ。おそらく駅前かどこかの産婦人科へ行って、妊娠を告げられたとき、彼女は嬉しかったと思います。それで、このセリフになるんです「私いいもの見つけちゃった」とネ。つまりこのセリフには妊娠を告げる喜びの言葉「私、あなたの子供ができちゃった」がダブっているんです。ところが、男は何といいました。「何を?」ですよ。奥さんが甘えた感じで「ねえ買ってもいいでしょう」と言った時にも「だから何を?」ですヨ。
 いいかい、この男はこういう言い方しかできないけれども、違った言い方だってできるんですヨ。それではハルーナさん、わたしにむかって奥さんのセリフをもう一度行ってみて下さい。
 「私いいもの見つけちゃった」
 「そりゃよかったね」
 「ねえ買ってもいいでしょう」
 「いいよ」
 ・・こういう言い方もできるわけです。いいですか、先ほど言ったように、奥さんは一度堕胎したことがあるという解釈を踏まえてこの場面を見るとですネ、この男は奥さんに対してかなり残酷なことを言っていることになります。奥さんにしてみれば『私はあなたの子供が欲しかった。けれどあなたは子供を生むことを願わなかった。私たちには子供を育てる経済的余裕もない。それで私は仕方なく自分で決断して子供をおろした。だから子供の代わりに、せめて文鳥のヒナを買いたいと言っているのに、あなたは文鳥なんか飼ってどうするんだい、などと無神経なことばっかり言っている。ああホントに嫌になってしまう』ということだヨ。
 いいかい、この男の特徴というのはサ。子供が出来た時にも、文鳥のヒナを買うときでも、決してはっきりと自分の意見を言っていないということなんだ。子供をおろせ、とも言っていないし、もちろん産めと言っていない。だから、奥さんは自分一人で決断したんだヨ。ほら、次のページをごらんなさい。奥さんが仕事に出掛ける時間になってふたりで駅まで行くけど、その間、男は文鳥のヒナを買っていいとも、いけないとも言ってないでしょう。なんかあいまいなままに、奥さんの意思が通ったという感じでヒナが買われるわけです。
 それでいいですか、今日話したいことはこの、奥さんが男に見送られて駅の階段を昇っていく場面です。つげさんは奥さんの足元を描いています。そしてタタタタと手書き文字を書き入れています。男は黙って奥さんの後ろ姿を見送っています。ふつうに読んでいるだけでは別になんていうことのない場面ですよネ。おそらく男は、いつものように奥さんを見送っていたのでしょうし、話の流れから見れば、駅前の鳥屋で時間をくってしまった分、奥さんは先を急いでいた、だから間に合うように階段を急いで駆け昇っていった、とまあこのように読み取るわけですネ。しかしつげ義春という漫画家はそんな単純な作家ではないんです。

 いいですか、奥さんのこの階段のタタタタという昇り方の中にですネ、彼女の男に対す
るすべての思いがこめられているんですヨ。私はあなたの子供を生みたかった、けれど貴
方の意を酌んで堕胎した、だからせめて文鳥のヒナを飼ってもいいでしょう、と甘えて頼
んでいるのに、「鳥なんか飼ってどうするんだい」ですからネ。奥さんにしてみればこん
な無神経な思いやりのない男とこれ以上一緒に生活するなんてできないと思って、もう二
度とおまえの顔など見たくない、そう思っているんです。しかし、しかしですよ、奥さん
は同時に自分が再び男のもとへと帰ってくる、帰ってこざるを得ない自分自身を痛いほど
知っているんです。そういった女の階段の昇り方をつげさんは見事に描いているというわ
けです。
 尤も、つげさんに聞いたところではそこまでは意識していなかったそうですが……。テ
キストの解体と再構築の批評は、いいですか、作者が意識していない領域まで踏み込んで
いくんです。作者が無意識で描いた領域まで突き進んでいかないと批評はダイナミックに
なりませんからネ。作者の意図は……なんて次元で批評を展開してもまったく面白くあり
ません。感性の鈍い、想像力に欠けた、単なる実証的な研究ほど退屈でバカバカしいもの
はないですネ。
 『チーコ』についての講義はこれでおしまいです。興味を持ったひとは、わたしの書い
た『チーコ』論を読みなさい。分かりましたネ、タクサガワノヴィチ。
 さて『退屈な話』ですが、この主人公はニコライ・ステパーノヴィチという六十二歳に
なる大学教授です。三等官という設定ですから、まあ大臣級のお偉いさんです。官等は十
八世紀にピョートル大帝が官位を十四等に分けて設置したんですネ。ゴーゴリやドストエ
フスキーが好んで設定した万年九等官というのは言わばたたき上げの最終地点です。日本
で言えば、まあ万年課長というわけで、もうこれ以上の出世はない。尤も、現代では課長
になるのも難しい、実に厳しい時代を迎えているわけですがネ。
 『退屈な話』はサブタイトルに「ある老人の手記より」とあります。この老人というの
が大学教授のニコライ・ステパーノヴィチです。つまりこの小説はニコライ・ステパーノ
ヴィチの〈手記〉という形をとっています。
 さて授業では、今までずっとドストエフスキーの話をしてきたわけですから、ニコライ
・ステパーノヴィチと言えば何かピンときませんか。ドストエフスキーの『悪霊』を読ん
だことのある人は何人ぐらいいるんでしょう。えっ、三人しかいないの。まあ、いいか。
『悪霊』の中にステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーという男が出て
きます。ステパンはヨーロッパに留学して最新の学問を身につけてロシアに帰還してきん
ですが、大学にちょっと勤めただけで追放されてしまった。この男を息子ニコライの家庭
教師として雇い入れたのがヴァルヴァーラという、広大な領地を有する女地主です。ニコ
ライは後に、つまりこの小説が始まる頃にはかなり虚無的な存在として登場してきますが
、ステパン先生の教え子であった頃はむしろひ弱な腺病質な子供だったんですネ。それで
ニコライが十歳の頃、ステパンは彼と肉体的な関係を結んでしまったんです。いわゆるホ
モセクシャルな関係を結ばれたニコライはそれ以来〈人類永遠のかの憂愁〉をたたえた子
供になってしまいます。
 ドストエフスキーは十九世紀の小説家ですから、まあこういったことは直接的に書きま
せん。分かるものにしか分からないやり方で、通の読者にそっと囁くように知らせるんで
すネ。
 さて、ステパンは女好きの美少年好みでもあったらしいのですが、ヴァルヴァーラの庇
護のもとに好き勝手なことをしまくっています。シャンパンをあおりながら、ロシアとは
、ロシアの神とは、などと、まるでソクラテス気取りでしゃべりまくっていたんですネ。
しかしこのステパンに確固たる理念や哲学があったわけではないんです。言わば彼の内部
は空っぽです。何にもない。虚無というほど立派なもんじゃない。なんかだらしなく空っ
ぽなんですネ。そのくせ、饒舌です。いつの時代でもそうですが、こういった空っぽな雄
弁家に影響される若者はあんがい多いんです。このステパン先生の教え子であったニコラ
イ・スタヴローギンはその犠牲者であったかもしれませんネ。やがて彼もまた虚無の権化
のような男になります。要するに彼は、善悪観念を磨滅させるほどに徹底的に考えた青年
です。彼は自分自身を材料にしていろいろな実験を試みた男ですが、結局確かなものを手
に入れることができなかった。
 ここで『悪霊』について詳しく語ることはしませんヨ。興味のあるひとはわたしの『悪
霊』論三部作を読みなさい、いいですネ、タクサガワノヴィチ。要するにわたしがこの短
い授業時間の中で強調したいのは、『退屈な話』の手記の主体であるニコライ・ステパー
ノヴィチが『悪霊』のステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーとその教
え子であったニコライ・スタヴローギンの名前を受け継いでいるということです。名前の
ニコライはニコライ・スタヴローギンの名前をそのまま、父称のステパーノヴィチはつま
りステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーを意味するのではないかとい
うことです。
 今までチェーホフの文学はドストエフスキーの文学とは対極にあると考えられていまし
たが、チェーホフの作品を詳細に分析してみると、彼がドストエフスキーの文学を熟読し
、自分なりに消化していたことは明白です。中途半端な小説家は影響を露骨にだしますが
、チェーホフの場合はその影響の跡がなかなか発見できないほどに消化しているというこ
とですネ。それにドストエフスキーを好きな評論家がチェーホフについてはあまり発言し
てこなかったということもあります。
 さて、わたしが今日、問題にしたいのは『退屈な話』の最後のほうに出てくるカーチャ
とニコライ・ステパーノヴィチの関係についてです。カーチャというのはニコライ・ステ
パーノヴィチの養女です。同僚の眼科医が死んで一人娘のカーチャ、当時七、八歳であっ
たんですが、彼女をニコライ・ステパーノヴィチが引き取ることになったわけです。二人
の歳の差は三十七歳です。養父と養女、いわば先生と教え子のような関係でもあったわけ
ですから、二人の間にまさか男と女の関係があったなんてふつうの読者なら絶対に詮索な
どしないところです。わたしもはじめはそう読んだ読者の一人です。ところが、十九世紀
のロシア文学というのは、ツァー(皇帝)専制下、厳しい検閲制度のもとにあって、露骨
な性描写など許されていなかった。ですからドストエフスキーもトルストイも男と女の具
体的な性関係を描写することはなかった。しかしです。彼ら世界の文豪は描かずして描く
という手法を開発します。例えば『罪と罰』の話を思い出して下さい。この小説は日本語
訳にすると千枚以上の長編ですが、設定された時間は非常に短い。十三日間の物語で、し
かも主人公のラスコーリニコフは四日間ぐらい意識不明であったりしますから、実際的に
は一週間ぐらいに起きた出来事を追っています。まあ、少し厳密な言い方をすれば、ラス
コーリニコフの過去が描かれていたりしますから、単純に一週間の物語とは言えないとこ
ろもありますがネ。しかし今日はそんな厳密に『罪と罰』を批評しようなどとは思ってい
ません。詳しいことを知りたいひとはわたしの『ドストエフスキー「罪と罰」の世界』を
熟読しなさい、いいですネ、タクサガワノヴィチ。
 話を元に戻しましょう。とにかく十九世紀の文豪たちにはセックス描写は許されていな
かったのです。しかし、今度のチェーホフ論『チェーホフを読め・・空虚な実存の孤独と
倦怠・・』にも書きましたが、ドストエフスキーの『罪と罰』なんか、いたるところに描
かれざる〈セックス描写〉が隠されているんです。一度読んだぐらいで「『罪と罰』って
ステキ」なんて言っている女子学生が毎年五人はいますが、しかし彼女たちのうちで誰一
人ラズミーヒンの〈すけべ〉に気づいたひとはいませんネ。この青年、ラスコーリニコフ
と違ってたいへん逞しい男で、翻訳の仕事などをてきぱきこなして金を稼ぎ、ちゃんと経
済的にも自立して学生生活を送っています。友情にも厚く、ラスコーリニコフが訪ねてく
れば、すぐにバイトを紹介するようなひとのいい好青年ですネ。ですから「わたしラズミ
ーヒンが好き」なんて女性はけっこういます。が、このたくましい好青年、女にかけても
なかなかの発展家で、気にいった女はすぐにものにする。ラスコーリニコフの下宿先を突
き止めた時に、当のラスコーリニコフは意識不明で屋根裏部屋のソファに寝込んでいるが
、そのわずか二、三日の間に下宿の女将プラスコーヴィヤといい仲(男と女の関係)にな
っています。
 が、二十歳前後の若い学生にそこまで読み取る力はない。それでそのことを指摘してや
ると、とつぜんラズミーヒン人気が下落したりします。まあ、あれですネ、ラスコーリニ
コフの妹ドゥーニャ、彼女はルージンと婚約してペテルブルクに母親のプリヘーリヤとや
ってくるわけですが、この美しいドゥーニャがラズミーヒンと結婚することになる・・わ
たしなどはホントいやになってしまいますヨ。なんでまたラズミーヒンなんですかネ。や
はりドゥーニャにはスヴィドリガイロフあたりを手玉にとってもらいたかったわけですが
、わたしから言わせるとあまり面白くない男と結婚してしまった。
 話を元に戻しましょう。『罪と罰』でなんと言っても描かれざる最大の〈濡れ場〉はソ
ーニャと最初の男の関係ですよネ。ソーニャの最初の男は誰か? 二十年も前のゼミでず
いぶん盛り上がったテーマですが、要するにソーニャの処女を買ったのは、あの酔漢マル
メラードフがペテルブルクじゅうで知らない者がないほど〈善良な人〉と吹聴したあのイ
ヴァン閣下ですネ。ソーニャの最初の相手の顔がはっきりすれば、彼ら二人の性的関係な
ど一行も描かれていなくとも、読者が想像力を働かせさえすれば鮮明に浮上してきます。
その他、スヴィドリガイロフとドゥーニャの関係とか、プラスコーヴィヤとチェヴァーロ
フ、ラスコーリニコフとナタリアおよびソーニャの関係など、描かれてはいないが、想像
すれば想像できる〈男と女〉の関係の場面はたくさんあります。まあ、きりがないのでこ
れぐらいにしておきましょう。詳しいことを知りたいひとは私が書いた『宮沢賢治とドス
トエフスキー』を読みなさい、いいですねシンタロウ君。
 さて『退屈な話』ですが、ニコライ・ステパーノヴィチがハリコフにやってきます。な
ぜやってきたのか。それは彼の一人娘リーザが好きになって結婚したいと思っているグネ
ッケルという男がハリコフに大きな屋敷と領地を持っているなどと言いふらしていたもの
だから、妻のワーリャが夫にハリコフに行ってくれと頼んでいたんです。ニコライ・ステ
パーノヴィチはどうもグネッケルが気にいらない。とにかく彼のすることなすことすべて
が気に入らずいらいらのし通しだったんです。しかし余命いくばくもない老教授は老妻の
言うことをきいてはるばるハリコフまでやってきたわけです。それでホテルに泊まって、
ハリコフ生まれの老ボーイにグネッケルのことを聞きます。するとそのボーイはグネッケ
ルなどという名前の屋敷は当地にはないし、そんな領地もないと断言します。まあ、ここ
だけ読めば、グネッケルは何か詐欺師みたいな男の印象が強いわけですが、チェーホフは
はっきりと書いていません。
 そうこうするうちに、娘のリーザが秘密に結婚式をあげてしまったという電報が老妻か
ら届きます。ニコライ・ステパーノヴィチはその電報を読んで愕然とします。が、その愕
然は娘の挙式ではないんです。彼はそのことに〈無関心〉の反応しか示せなかったことに
愕然とするんです。
 それでまたそうこうするうちにワーリャがニコライ・ステパーノヴィチのホテルに訪ね
て来ます。やはり老教授ニコライの〈手記〉とは言ってもチェーホフが作っている〈小説
〉てすからネ、次々に新たな出来事が向こうからやって来るというわけです。
 さて、いよいよわたしが言いたい山場です。ワーリャはニコライ・ステパーノヴィチが
病気で、あと何ヵ月しか生きられないということを知っています。まあ、知っているかど
うかははっきりとは書かれてはいませんが、それ位のことを察する感性がなければはじめ
からお話になりません。カーチャは執拗に「わたしはどうしたらいいんです?」と詰め寄
ります。この言葉は、人生の指針を老教授に求めているように聞こえないことはないです
よネ、というよりかそのように受け取られてきたわけです。しかし、いいですか、タクサ
ガワノヴィチ。若い女が、男に向かってこのようなセリフを何回も執拗に、ヒステリック
に、叫ぶように問うということは尋常ではないですよネ。
 チェーホフはさりげなく書いています。カーチャが手提袋からハンカチを取り出そうと
したとき、何通かの手紙が床に落ちてしまう。手紙を拾い上げたニコライ・ステパーノヴ
ィチは、筆跡でそれが同僚の文献学者ミハイルがワーリャ宛に出した熱愛の手紙であるこ
とを察します。この文献学者は五十年輩の教授で、毎日のようにカーチャの家を訪れては
大学内のことで毒舌を発揮していた男で、カーチャとはその点でも気が合っていたように
書かれていました。しかし、今、なぜカーチャがわざわざハリコフにまでニコライ・ステ
パーノヴィチを訪ねて「わたしはどうすればいいんです?」などと問いただしているのか
と言えば、それはつまりカーチャがニコライ・ステパーノヴィチを誰よりも愛していたか
らにほかならないでしょう。『わたしはミハイルに熱愛されている、ほらこんなにたくさ
んの熱烈な手紙を貰っている、しかし、しかしわたしが誰よりも愛しているのはあなた、
ニコライ・ステパーノヴィチなのです、いったいわたしはどうしたらいいんです?』まあ
、カーチャの内心を代弁すれぱこういうことになります。
 ところがニコライ・ステパーノヴィチはそのカーチャの心を知ってか知らずか、完璧に
はぐらかして「ほんとうに、カーチャ、わからないんだよ」などとバカなセリフを吐いて
います。が、カーチャはそんな言葉を耳にするためにわざわざハリコフまでやってきたわ
けではないですからネ、泣きながら執拗に食い下がります。するとニコライ・ステパーノ
ヴィチは「朝御飯でも食べよう」なんて、さらに間抜けなことを口にします。彼は「わし
はもうすぐ死ぬよ」とまで告白しています。カーチャはいっさいそんなことに耳をかしま
せん。当たり前ですよネ、カーチャはニコライ・ステパーノヴィチと朝御飯を食べるため
にハリコフまでやってきたわけではないんですから。カーチャは愛する、誰よりも愛する
ニコライ・ステパーノヴィチの、自分の思いと同じ思いの言葉を聞きたかった、ただその
ひと言を聞くためにすべてを捨ててハリコフにやってきたんです。
 しかし、ついにニコライ・ステパーノヴィチからその言葉を引き出すことはできなかっ
た。沈黙が訪れます。この沈黙のなかでカーチャは決定的に変わります。泣きじゃくりな
がら愛の言葉をおねだりする女から、断念した女、ニコライ・ステパーノヴィチに愛想を
つかした女に変貌します。ニコライ・ステパーノヴィチ、いやチェーホフはその変貌した
女カーチャを次のように書いています。いいですか、タクサガワノヴィチ、この場面は恐
ろしいですヨ。ちょっと読んでみますから、よく聞いてくださいヨ。

 沈黙が訪れる。カーチャは髪を直して帽子をかぶり、それから手紙を丸めて手提袋へ突
込む。・・これらの動作は、黙ったままゆっくり行われる。顔も胸も手袋も涙でぬれてい
るが、表情はもう乾いていて、きびしい。

 どうですか、わたしが言わんとしていることが分かりますか。このときカーチャはゆっ
くりと髪を直し、ゆっくりと帽子をかぶり、ゆっくりと手紙を丸めて手提袋に入れていま
すよネ。つまりこのゆっくりした動作が別離を決意した女の行為なんですネ。
 『チーコ』の奥さんが駅の階段を駆け昇っていく場面を思い出してください。先に話し
たように、『チーコ』の奥さんの場合は男に愛想をつかし別れたいと思っても、結局は帰
ってこざるを得ない女、そういった女の階段の昇り方だと言いましたが、カーチャの場合
はまったく違いますよネ。カーチャはもう泣きもしません、わめきもしません、ましてや
「わたしはどうすればいいのです」とも訊いたりしません。〈別離〉は決定的です。決定
的な〈別離〉を覚悟した女が、男とどのように別れていくか、チェーホフはそれを次のよ
うに書きました。

2004年1月19日

チェーホフの『退屈な話』を授業する(2)

……彼女の顔を眺めているうちに、わが輩は自分が彼女よりも仕合せなのが恥かしくなる。同僚の哲学者たちが共通の理念と呼んでいるものが自分に欠けていることを、わが輩は死のまぎわになって気づいたが、この哀れな娘の魂はこれまでも、これからも一生涯、隠れ家を知らないで過すのであろう!
 「カーチャ、朝御飯を食べよう」とわが輩が言う。
 「いいの。ありがとう」と彼女は冷やかに答える。
  また一分間、沈黙のうちに過ぎ去る。
 「ハリコフは気に入らないよ」とわが輩が言う。ひどく陰気だ。妙に陰気な町だね。」

 「そうね、……汚い町。……あたしは長くここにはいませんの。……ほんの通りすがりに。今日、発ちますわ。」
 「どこへ?」
 「クリミアへ、……つまりコーカサスへ。」
 「そう。長くいるのかね?」
 「わかりませんわ。」
  カーチャは立ちあがって冷たい微笑を浮かべ、わが輩の顔を見ずに手を差し出す。『すると、わしの葬式には来てくれないんだね?』・・わが輩の顔を見ず、その手は他人の手のように冷たい。わが輩は黙って彼女をドアまで送って出る。……見るまに彼女はわが輩から離れ、振向きもせずに長い廊下を立ち去って行く。わが輩が見送っているのを知っているから、たぶん曲り角では振向いてくれるだろう。
  いや、彼女は振向かなかった。黒い服がちらりとひらめいたのが見納めで、足音が遠のいていった。……さらば、わが宝よ!

 

どうですか、この別離の場面は胸をキュンとさせますネ。それにしてもあと何ヵ月かで死ぬ運命にあるニコライ・ステパーノヴィチが、カーチャの顔を眺めながら、自分のほうが仕合わせだと感じるというのはどうでしょうかネ。いったいカーチャは何を望んでいたんでしょう、そして今、何に絶望しているんでしょうか。カーチャはすべてを捨て、ニコライ・ステパーノヴィチ一人に望みをかけてハリコフまでやってきた。カーチャは「助けてください!」「もう生きていけないのです!」とまで言っていた。しかし老教授は「カーチャ、朝御飯を食べよう」としか言えない。まるで安っぽいカルカチュア小説みたいじゃないですか。三等官の名誉教授たる者が、救いを求めて自分のところにやって来た者にこんな言葉しか発することができないなんて……。全く絶句もんですヨ。しかもカーチャは〈わが宝〉ですヨ、〈わが宝〉。

 そうです、ニコライ・ステパーノヴィチはだからこそ自分が本当に納得していない言葉を発することができなかった。「ほんとうに、カーチャ、わからないんだよ。……」この言葉に嘘偽りはない。わからないものはわからないとしか言いようがない。嘘をつくのは容易だ、が老教授はそんな容易な薄っぺらな言葉をカーチャにはきたくなかった。彼は誠実なんですネ。まず自分の心に誠実です。もう死しか待っていないというのに、今さら嘘なんてついたって仕方ないですからネ。しかしこの誠実は、激しく求める女には何の足しにもならない。女は男の誠実なんかより、情熱的な嘘を求めたいことだってあるわけです。しかしこのニコライ・ステパーノヴィチという男、ついに〈わが宝〉をわが胸に抱きとめることができなかった……。

 カーチャは去って行く、もう二度と再びニコライ・ステパーノヴィチの方を振り向いたりしない。カーチャは〈クリミア〉へ、つまり〈コーカサス〉へ行くと言います。いったいどこですか〈コーカサス〉って。どんな間抜けな読者だってそこがカーチャの新天地であり、幸福を約束する土地だなんて思わないでしょう。チェーホフは「黒い服がちらりとひらめいた」と書いている。実にさりげない書き方で、鈍感な読者は何も気づかないかもしれないが、要するにこの〈黒い服〉はカーチャの〈死〉を暗示している。死ぬのはニコライ・ステパーノヴィチばかりではないんです。カーチャは自分の死を覚悟してやってきたんですヨ、ハリコフまでネ。彼女にしてみれば最も愛するニコライ・ステパーノヴィチと愛を確認して一緒に死にたかったでしょう。だからこそニコライ・ステパーノヴィチが「わしはもうすぐ死ぬよ、カーチャ」と言った時にも、そのことにはひと言もふれずに「わたしはどうしたらいいのです?」としつこく訊き返したんです。カーチャは彼からたったひと言、愛の証の言葉がほしかった。なのに老教授の返事は「わからない」ですからネ。

 カーチャとニコライ・ステパーノヴィチの間に結ばれていた〈絆〉はここで断ち切られます。絆を断ち切ったのはカーチャです。もうこうなったら女は泣きません。カーチャはたった一人で〈死〉の荒野へと去っていきます。カーチャが曲り角をまがったその前方に広がっているのははてしのない荒野です、どうですか、見えますかタクサガワノヴィチ、その寒々とした荒野が……。カーチャに吹いてくる絶望の風を感じることができなければこの『退屈な話』を読んだことにならないヨ。

 ニコライ・ステパーノヴィチが〈わが宝〉を失った孤独、その孤独よりも壮絶な孤独、それがニコライ・ステパーノヴィチの愛を得ることのできなかったカーチャの孤独ですネ。わたしは『退屈な話』の中で書きましたよ、〈わが宝〉を失ったニコライ・ステパーノヴィチのその孤独の姿を眼の前にして「どうでもいい」、ロシア語でフショー・ラヴノー(Всё равно)ですが、そう言えるのかってネ。

 『六号室』に出てくるラーギン医師は「どうでもいい」というのが口癖のような男なんですがネ。確かにチェーホフの文学の基底にはこのВсё равноという気分が絶え間なく流れている。倦怠、アンニュイですネ、何にも期待しない、どうでもいい、この頽廃的な虚無の感覚がある。気だるい感じですネ。まあ、わたしのなかにもこういった気分、感覚はいつもつきまとっている。いま、こういう風に授業で大きな声を出して情熱的にしゃべっていても、実はかなり覚めていて、虚無的なけだるい感じがあるんですヨ。

 タクサガワノヴィチ、どうですかネ、こういった「どうでもいい」という感じは若い時にもあるでしょう、わたしは十代の後半からこういった感覚がありましたネ。それ以来、ずっとあるわけです。

 あっ、ちょっと待って下さい、今、風邪気味で鼻がつまっているんでトイレではなをかんできますから。

 〔一分後〕

 ええと、あと何分ありますか、七分、それじゃもう少し話ましょう。マレーネ・ディートリッヒ主演の『モロッコ』という映画があります。監督はジョセフ・フォン・スタンバーグ。観たことのあるひとどれくらいいますか。えっ、ひとりもいない。芸術学部の学生がこんな有名な映画を観ていないなんて恥ですヨ、恥。この映画にはもうおしまいになってしまったような人間が三人登場します。一人はディートリッヒ演ずる歌姫エーミイ・ジョリイですネ、この女、おそらく失恋して、もう二度と恋などできない、といったかなりクールで妖しい雰囲気を漂わせています。この女がアフリカのモロッコ行きの汽船に乗船しています。デッキで遠くを眺めるような眼差しで煙草をくゆらしてる場面などはかなりきまっています。そうそう、チェーホフは『ともしび』という作品の中で鉄道の施設工事に係わっているアナニエフ技師が、昔、ものにしようとした或る魅惑的な女について「まるで、海も、遠くに見える煙も、空も、とうの昔に見あきてしまって、眼が疲れるだけだ、と言うような様子や、表情なんですからね。どうやら彼女は、疲れはて、退屈しきって」云々と書いているんですが、まさにそういった感じです。

 この歌姫エーミイに接近して来たのがプレイボーーイ風の金持ちラ・ベシエールです。だいたいプレイボーイというのは一人の女を愛しきれない、質ではなく量でこなそうとする男です。ですからベシエールにしてみれば、エーミイもまた束の間の、恋愛遊戯の相手として接近してきたわけです。ところが、この名うてのプレイボーイがどういうわけかエーミイの魅惑の虜になってプロボーズまですることになる。まあ、プレイボーイとしては失格なわけですが、どういうわけか一度終わってしまったような人間は、同じように終わ
ってしまった人間に惹かれるもんなんですネ。恋は~不思議ね~、消えた~はずの~灰のなかから~なぜに燃える~ということですヨ。燃え尽きた灰の中から、どういうわけか再び恋の炎が燃え上がるというわけだ。ね、分かるでしょう、タクサガワノヴィチ!

 さてもう一人、おしまいになった男がいます。これがゲイリイ・クーパー演ずるところの外人部隊に所属する兵士トム・ブラウンです。まあこの男も外人部隊に所属する雇われ兵士ということで、命なんぞいつでもくれてやらあぐらいの気持で生きている。まあ、この男も陽気な女好きのプレイボーイで、たった一人の女に血道をあげるような男じゃない。この二人が最初に出会うのが兵士相手のキャバレーで、この時のエーミイの歌はなかなか魅惑的です。海千山千のプレイボーイの心を引っつかんで話さないような引力がありますネ。まあ、男と女の決定的な出会いというのは瞬間で決まります。何日も何ヵ月もつきあって燃えるなんてもんじゃない。宿命的な恋はすべて瞬間です。瞬間で燃え上がる。しかしガキの恋じゃないヨ、いいねシンタロウ君。

 さっき言ったように彼らはすでに一度終わっているんだ、生きている舞台から、生きながらにして下りてしまっているんだ。なぜエーミイがアフリカのモロッコくんだりまで来たのか、なぜトム・ブラウンはいつ殺されるか分からない外人部隊に入隊したのか、ということだ。一度、人生に幕を下ろしているから、あとは野となれ山となれ、というやけっぱちがある。諦めがある。そのやけっぱちや諦めを露骨に出したら、品がないネ。やけっぱちにも品がないとダメなんだ。エーミイを演ずるのがマレーネ・デートリッヒで、トム・ブラウンはゲイリイ・クーパーが演じなければ、やはり『モロッコ』は名作にならないんだナ。プレイボーイのラ・ベシエールもそうだネ、この役を演じた男優は実によかった。プレイボーイはこういう顔をしていなきゃいけない、つまり観ている者を納得させてしまう演技だった。

 さて、ここで『モロッコ』論を長々と続けるわけにはいかないから先を急ごう。わたしが言いたいのは、この映画の最終場面だ。トムはエーミイを愛してしまう。エーミイはラ・ベシエールに求婚される。エーミイはもちろん二人の男に強く愛されていることを知っている。が、迷いもある。すでに一度、なにもかも捨てて辺境の地モロッコに自分の骨を埋めるような気持でやって来た歌姫が、今さら激しい恋におちることなど想像すらしていなかっただろう。

 が、生きている限り、予想のつかないことは起きるもんです。エーミイはトム・ブラウンかラ・ベシエールか、二者択一の前にたって迷います。なにも迷うことなんかないのにと思う観客もいるでしょうネ。なにしろトム・ブラウンを演ずるのがゲイリイ・クーパーですから。しかし女はいつでも複数の男に激しく求められれば迷うのです。そうそう、『アンナ・カレーニナ』のキチイがヴロンスキーとリョーヴィンに迷ったと同じようにネ。そんなもんですヨ、ね、タクサガワノヴィチ。

チェーホフの『退屈な話』を授業する(2)

……彼女の顔を眺めているうちに、わが輩は自分が彼女よりも仕合せなのが恥かしくなる。同僚の哲学者たちが共通の理念と呼んでいるものが自分に欠けていることを、わが輩は死のまぎわになって気づいたが、この哀れな娘の魂はこれまでも、これからも一生涯、隠れ家を知らないで過すのであろう!
 「カーチャ、朝御飯を食べよう」とわが輩が言う。
 「いいの。ありがとう」と彼女は冷やかに答える。
  また一分間、沈黙のうちに過ぎ去る。
 「ハリコフは気に入らないよ」とわが輩が言う。ひどく陰気だ。妙に陰気な町だね。」

 「そうね、……汚い町。……あたしは長くここにはいませんの。……ほんの通りすがりに。今日、発ちますわ。」
 「どこへ?」
 「クリミアへ、……つまりコーカサスへ。」
 「そう。長くいるのかね?」
 「わかりませんわ。」
  カーチャは立ちあがって冷たい微笑を浮かべ、わが輩の顔を見ずに手を差し出す。『すると、わしの葬式には来てくれないんだね?』・・わが輩の顔を見ず、その手は他人の手のように冷たい。わが輩は黙って彼女をドアまで送って出る。……見るまに彼女はわが輩から離れ、振向きもせずに長い廊下を立ち去って行く。わが輩が見送っているのを知っているから、たぶん曲り角では振向いてくれるだろう。
  いや、彼女は振向かなかった。黒い服がちらりとひらめいたのが見納めで、足音が遠のいていった。……さらば、わが宝よ!

 

どうですか、この別離の場面は胸をキュンとさせますネ。それにしてもあと何ヵ月かで死ぬ運命にあるニコライ・ステパーノヴィチが、カーチャの顔を眺めながら、自分のほうが仕合わせだと感じるというのはどうでしょうかネ。いったいカーチャは何を望んでいたんでしょう、そして今、何に絶望しているんでしょうか。カーチャはすべてを捨て、ニコライ・ステパーノヴィチ一人に望みをかけてハリコフまでやってきた。カーチャは「助けてください!」「もう生きていけないのです!」とまで言っていた。しかし老教授は「カーチャ、朝御飯を食べよう」としか言えない。まるで安っぽいカルカチュア小説みたいじゃないですか。三等官の名誉教授たる者が、救いを求めて自分のところにやって来た者にこんな言葉しか発することができないなんて……。全く絶句もんですヨ。しかもカーチャは〈わが宝〉ですヨ、〈わが宝〉。

 そうです、ニコライ・ステパーノヴィチはだからこそ自分が本当に納得していない言葉を発することができなかった。「ほんとうに、カーチャ、わからないんだよ。……」この言葉に嘘偽りはない。わからないものはわからないとしか言いようがない。嘘をつくのは容易だ、が老教授はそんな容易な薄っぺらな言葉をカーチャにはきたくなかった。彼は誠実なんですネ。まず自分の心に誠実です。もう死しか待っていないというのに、今さら嘘なんてついたって仕方ないですからネ。しかしこの誠実は、激しく求める女には何の足しにもならない。女は男の誠実なんかより、情熱的な嘘を求めたいことだってあるわけです。しかしこのニコライ・ステパーノヴィチという男、ついに〈わが宝〉をわが胸に抱きとめることができなかった……。

 カーチャは去って行く、もう二度と再びニコライ・ステパーノヴィチの方を振り向いたりしない。カーチャは〈クリミア〉へ、つまり〈コーカサス〉へ行くと言います。いったいどこですか〈コーカサス〉って。どんな間抜けな読者だってそこがカーチャの新天地であり、幸福を約束する土地だなんて思わないでしょう。チェーホフは「黒い服がちらりとひらめいた」と書いている。実にさりげない書き方で、鈍感な読者は何も気づかないかもしれないが、要するにこの〈黒い服〉はカーチャの〈死〉を暗示している。死ぬのはニコライ・ステパーノヴィチばかりではないんです。カーチャは自分の死を覚悟してやってきたんですヨ、ハリコフまでネ。彼女にしてみれば最も愛するニコライ・ステパーノヴィチと愛を確認して一緒に死にたかったでしょう。だからこそニコライ・ステパーノヴィチが「わしはもうすぐ死ぬよ、カーチャ」と言った時にも、そのことにはひと言もふれずに「わたしはどうしたらいいのです?」としつこく訊き返したんです。カーチャは彼からたったひと言、愛の証の言葉がほしかった。なのに老教授の返事は「わからない」ですからネ。

 カーチャとニコライ・ステパーノヴィチの間に結ばれていた〈絆〉はここで断ち切られます。絆を断ち切ったのはカーチャです。もうこうなったら女は泣きません。カーチャはたった一人で〈死〉の荒野へと去っていきます。カーチャが曲り角をまがったその前方に広がっているのははてしのない荒野です、どうですか、見えますかタクサガワノヴィチ、その寒々とした荒野が……。カーチャに吹いてくる絶望の風を感じることができなければこの『退屈な話』を読んだことにならないヨ。

 ニコライ・ステパーノヴィチが〈わが宝〉を失った孤独、その孤独よりも壮絶な孤独、それがニコライ・ステパーノヴィチの愛を得ることのできなかったカーチャの孤独ですネ。わたしは『退屈な話』の中で書きましたよ、〈わが宝〉を失ったニコライ・ステパーノヴィチのその孤独の姿を眼の前にして「どうでもいい」、ロシア語でフショー・ラヴノー(Всё равно)ですが、そう言えるのかってネ。

 『六号室』に出てくるラーギン医師は「どうでもいい」というのが口癖のような男なんですがネ。確かにチェーホフの文学の基底にはこのВсё равноという気分が絶え間なく流れている。倦怠、アンニュイですネ、何にも期待しない、どうでもいい、この頽廃的な虚無の感覚がある。気だるい感じですネ。まあ、わたしのなかにもこういった気分、感覚はいつもつきまとっている。いま、こういう風に授業で大きな声を出して情熱的にしゃべっていても、実はかなり覚めていて、虚無的なけだるい感じがあるんですヨ。

 タクサガワノヴィチ、どうですかネ、こういった「どうでもいい」という感じは若い時にもあるでしょう、わたしは十代の後半からこういった感覚がありましたネ。それ以来、ずっとあるわけです。

 あっ、ちょっと待って下さい、今、風邪気味で鼻がつまっているんでトイレではなをかんできますから。

 〔一分後〕

 ええと、あと何分ありますか、七分、それじゃもう少し話ましょう。マレーネ・ディートリッヒ主演の『モロッコ』という映画があります。監督はジョセフ・フォン・スタンバーグ。観たことのあるひとどれくらいいますか。えっ、ひとりもいない。芸術学部の学生がこんな有名な映画を観ていないなんて恥ですヨ、恥。この映画にはもうおしまいになってしまったような人間が三人登場します。一人はディートリッヒ演ずる歌姫エーミイ・ジョリイですネ、この女、おそらく失恋して、もう二度と恋などできない、といったかなりクールで妖しい雰囲気を漂わせています。この女がアフリカのモロッコ行きの汽船に乗船しています。デッキで遠くを眺めるような眼差しで煙草をくゆらしてる場面などはかなりきまっています。そうそう、チェーホフは『ともしび』という作品の中で鉄道の施設工事に係わっているアナニエフ技師が、昔、ものにしようとした或る魅惑的な女について「まるで、海も、遠くに見える煙も、空も、とうの昔に見あきてしまって、眼が疲れるだけだ、と言うような様子や、表情なんですからね。どうやら彼女は、疲れはて、退屈しきって」云々と書いているんですが、まさにそういった感じです。

 この歌姫エーミイに接近して来たのがプレイボーーイ風の金持ちラ・ベシエールです。だいたいプレイボーイというのは一人の女を愛しきれない、質ではなく量でこなそうとする男です。ですからベシエールにしてみれば、エーミイもまた束の間の、恋愛遊戯の相手として接近してきたわけです。ところが、この名うてのプレイボーイがどういうわけかエーミイの魅惑の虜になってプロボーズまですることになる。まあ、プレイボーイとしては失格なわけですが、どういうわけか一度終わってしまったような人間は、同じように終わ
ってしまった人間に惹かれるもんなんですネ。恋は~不思議ね~、消えた~はずの~灰のなかから~なぜに燃える~ということですヨ。燃え尽きた灰の中から、どういうわけか再び恋の炎が燃え上がるというわけだ。ね、分かるでしょう、タクサガワノヴィチ!

 さてもう一人、おしまいになった男がいます。これがゲイリイ・クーパー演ずるところの外人部隊に所属する兵士トム・ブラウンです。まあこの男も外人部隊に所属する雇われ兵士ということで、命なんぞいつでもくれてやらあぐらいの気持で生きている。まあ、この男も陽気な女好きのプレイボーイで、たった一人の女に血道をあげるような男じゃない。この二人が最初に出会うのが兵士相手のキャバレーで、この時のエーミイの歌はなかなか魅惑的です。海千山千のプレイボーイの心を引っつかんで話さないような引力がありますネ。まあ、男と女の決定的な出会いというのは瞬間で決まります。何日も何ヵ月もつきあって燃えるなんてもんじゃない。宿命的な恋はすべて瞬間です。瞬間で燃え上がる。しかしガキの恋じゃないヨ、いいねシンタロウ君。

 さっき言ったように彼らはすでに一度終わっているんだ、生きている舞台から、生きながらにして下りてしまっているんだ。なぜエーミイがアフリカのモロッコくんだりまで来たのか、なぜトム・ブラウンはいつ殺されるか分からない外人部隊に入隊したのか、ということだ。一度、人生に幕を下ろしているから、あとは野となれ山となれ、というやけっぱちがある。諦めがある。そのやけっぱちや諦めを露骨に出したら、品がないネ。やけっぱちにも品がないとダメなんだ。エーミイを演ずるのがマレーネ・デートリッヒで、トム・ブラウンはゲイリイ・クーパーが演じなければ、やはり『モロッコ』は名作にならないんだナ。プレイボーイのラ・ベシエールもそうだネ、この役を演じた男優は実によかった。プレイボーイはこういう顔をしていなきゃいけない、つまり観ている者を納得させてしまう演技だった。

 さて、ここで『モロッコ』論を長々と続けるわけにはいかないから先を急ごう。わたしが言いたいのは、この映画の最終場面だ。トムはエーミイを愛してしまう。エーミイはラ・ベシエールに求婚される。エーミイはもちろん二人の男に強く愛されていることを知っている。が、迷いもある。すでに一度、なにもかも捨てて辺境の地モロッコに自分の骨を埋めるような気持でやって来た歌姫が、今さら激しい恋におちることなど想像すらしていなかっただろう。

 が、生きている限り、予想のつかないことは起きるもんです。エーミイはトム・ブラウンかラ・ベシエールか、二者択一の前にたって迷います。なにも迷うことなんかないのにと思う観客もいるでしょうネ。なにしろトム・ブラウンを演ずるのがゲイリイ・クーパーですから。しかし女はいつでも複数の男に激しく求められれば迷うのです。そうそう、『アンナ・カレーニナ』のキチイがヴロンスキーとリョーヴィンに迷ったと同じようにネ。そんなもんですヨ、ね、タクサガワノヴィチ。

チェーホフの『退屈な話』を授業する(2)

……彼女の顔を眺めているうちに、わが輩は自分が彼女よりも仕合せなのが恥かしくなる。同僚の哲学者たちが共通の理念と呼んでいるものが自分に欠けていることを、わが輩は死のまぎわになって気づいたが、この哀れな娘の魂はこれまでも、これからも一生涯、隠れ家を知らないで過すのであろう!
 「カーチャ、朝御飯を食べよう」とわが輩が言う。
 「いいの。ありがとう」と彼女は冷やかに答える。
  また一分間、沈黙のうちに過ぎ去る。
 「ハリコフは気に入らないよ」とわが輩が言う。ひどく陰気だ。妙に陰気な町だね。」

 「そうね、……汚い町。……あたしは長くここにはいませんの。……ほんの通りすがりに。今日、発ちますわ。」
 「どこへ?」
 「クリミアへ、……つまりコーカサスへ。」
 「そう。長くいるのかね?」
 「わかりませんわ。」
  カーチャは立ちあがって冷たい微笑を浮かべ、わが輩の顔を見ずに手を差し出す。『すると、わしの葬式には来てくれないんだね?』・・わが輩の顔を見ず、その手は他人の手のように冷たい。わが輩は黙って彼女をドアまで送って出る。……見るまに彼女はわが輩から離れ、振向きもせずに長い廊下を立ち去って行く。わが輩が見送っているのを知っているから、たぶん曲り角では振向いてくれるだろう。
  いや、彼女は振向かなかった。黒い服がちらりとひらめいたのが見納めで、足音が遠のいていった。……さらば、わが宝よ!

 

どうですか、この別離の場面は胸をキュンとさせますネ。それにしてもあと何ヵ月かで死ぬ運命にあるニコライ・ステパーノヴィチが、カーチャの顔を眺めながら、自分のほうが仕合わせだと感じるというのはどうでしょうかネ。いったいカーチャは何を望んでいたんでしょう、そして今、何に絶望しているんでしょうか。カーチャはすべてを捨て、ニコライ・ステパーノヴィチ一人に望みをかけてハリコフまでやってきた。カーチャは「助けてください!」「もう生きていけないのです!」とまで言っていた。しかし老教授は「カーチャ、朝御飯を食べよう」としか言えない。まるで安っぽいカルカチュア小説みたいじゃないですか。三等官の名誉教授たる者が、救いを求めて自分のところにやって来た者にこんな言葉しか発することができないなんて……。全く絶句もんですヨ。しかもカーチャは〈わが宝〉ですヨ、〈わが宝〉。

 そうです、ニコライ・ステパーノヴィチはだからこそ自分が本当に納得していない言葉を発することができなかった。「ほんとうに、カーチャ、わからないんだよ。……」この言葉に嘘偽りはない。わからないものはわからないとしか言いようがない。嘘をつくのは容易だ、が老教授はそんな容易な薄っぺらな言葉をカーチャにはきたくなかった。彼は誠実なんですネ。まず自分の心に誠実です。もう死しか待っていないというのに、今さら嘘なんてついたって仕方ないですからネ。しかしこの誠実は、激しく求める女には何の足しにもならない。女は男の誠実なんかより、情熱的な嘘を求めたいことだってあるわけです。しかしこのニコライ・ステパーノヴィチという男、ついに〈わが宝〉をわが胸に抱きとめることができなかった……。

 カーチャは去って行く、もう二度と再びニコライ・ステパーノヴィチの方を振り向いたりしない。カーチャは〈クリミア〉へ、つまり〈コーカサス〉へ行くと言います。いったいどこですか〈コーカサス〉って。どんな間抜けな読者だってそこがカーチャの新天地であり、幸福を約束する土地だなんて思わないでしょう。チェーホフは「黒い服がちらりとひらめいた」と書いている。実にさりげない書き方で、鈍感な読者は何も気づかないかもしれないが、要するにこの〈黒い服〉はカーチャの〈死〉を暗示している。死ぬのはニコライ・ステパーノヴィチばかりではないんです。カーチャは自分の死を覚悟してやってきたんですヨ、ハリコフまでネ。彼女にしてみれば最も愛するニコライ・ステパーノヴィチと愛を確認して一緒に死にたかったでしょう。だからこそニコライ・ステパーノヴィチが「わしはもうすぐ死ぬよ、カーチャ」と言った時にも、そのことにはひと言もふれずに「わたしはどうしたらいいのです?」としつこく訊き返したんです。カーチャは彼からたったひと言、愛の証の言葉がほしかった。なのに老教授の返事は「わからない」ですからネ。

 カーチャとニコライ・ステパーノヴィチの間に結ばれていた〈絆〉はここで断ち切られます。絆を断ち切ったのはカーチャです。もうこうなったら女は泣きません。カーチャはたった一人で〈死〉の荒野へと去っていきます。カーチャが曲り角をまがったその前方に広がっているのははてしのない荒野です、どうですか、見えますかタクサガワノヴィチ、その寒々とした荒野が……。カーチャに吹いてくる絶望の風を感じることができなければこの『退屈な話』を読んだことにならないヨ。

 ニコライ・ステパーノヴィチが〈わが宝〉を失った孤独、その孤独よりも壮絶な孤独、それがニコライ・ステパーノヴィチの愛を得ることのできなかったカーチャの孤独ですネ。わたしは『退屈な話』の中で書きましたよ、〈わが宝〉を失ったニコライ・ステパーノヴィチのその孤独の姿を眼の前にして「どうでもいい」、ロシア語でフショー・ラヴノー(Всё равно)ですが、そう言えるのかってネ。

 『六号室』に出てくるラーギン医師は「どうでもいい」というのが口癖のような男なんですがネ。確かにチェーホフの文学の基底にはこのВсё равноという気分が絶え間なく流れている。倦怠、アンニュイですネ、何にも期待しない、どうでもいい、この頽廃的な虚無の感覚がある。気だるい感じですネ。まあ、わたしのなかにもこういった気分、感覚はいつもつきまとっている。いま、こういう風に授業で大きな声を出して情熱的にしゃべっていても、実はかなり覚めていて、虚無的なけだるい感じがあるんですヨ。

 タクサガワノヴィチ、どうですかネ、こういった「どうでもいい」という感じは若い時にもあるでしょう、わたしは十代の後半からこういった感覚がありましたネ。それ以来、ずっとあるわけです。

 あっ、ちょっと待って下さい、今、風邪気味で鼻がつまっているんでトイレではなをかんできますから。

 〔一分後〕

 ええと、あと何分ありますか、七分、それじゃもう少し話ましょう。マレーネ・ディートリッヒ主演の『モロッコ』という映画があります。監督はジョセフ・フォン・スタンバーグ。観たことのあるひとどれくらいいますか。えっ、ひとりもいない。芸術学部の学生がこんな有名な映画を観ていないなんて恥ですヨ、恥。この映画にはもうおしまいになってしまったような人間が三人登場します。一人はディートリッヒ演ずる歌姫エーミイ・ジョリイですネ、この女、おそらく失恋して、もう二度と恋などできない、といったかなりクールで妖しい雰囲気を漂わせています。この女がアフリカのモロッコ行きの汽船に乗船しています。デッキで遠くを眺めるような眼差しで煙草をくゆらしてる場面などはかなりきまっています。そうそう、チェーホフは『ともしび』という作品の中で鉄道の施設工事に係わっているアナニエフ技師が、昔、ものにしようとした或る魅惑的な女について「まるで、海も、遠くに見える煙も、空も、とうの昔に見あきてしまって、眼が疲れるだけだ、と言うような様子や、表情なんですからね。どうやら彼女は、疲れはて、退屈しきって」云々と書いているんですが、まさにそういった感じです。

 この歌姫エーミイに接近して来たのがプレイボーーイ風の金持ちラ・ベシエールです。だいたいプレイボーイというのは一人の女を愛しきれない、質ではなく量でこなそうとする男です。ですからベシエールにしてみれば、エーミイもまた束の間の、恋愛遊戯の相手として接近してきたわけです。ところが、この名うてのプレイボーイがどういうわけかエーミイの魅惑の虜になってプロボーズまですることになる。まあ、プレイボーイとしては失格なわけですが、どういうわけか一度終わってしまったような人間は、同じように終わ
ってしまった人間に惹かれるもんなんですネ。恋は~不思議ね~、消えた~はずの~灰のなかから~なぜに燃える~ということですヨ。燃え尽きた灰の中から、どういうわけか再び恋の炎が燃え上がるというわけだ。ね、分かるでしょう、タクサガワノヴィチ!

 さてもう一人、おしまいになった男がいます。これがゲイリイ・クーパー演ずるところの外人部隊に所属する兵士トム・ブラウンです。まあこの男も外人部隊に所属する雇われ兵士ということで、命なんぞいつでもくれてやらあぐらいの気持で生きている。まあ、この男も陽気な女好きのプレイボーイで、たった一人の女に血道をあげるような男じゃない。この二人が最初に出会うのが兵士相手のキャバレーで、この時のエーミイの歌はなかなか魅惑的です。海千山千のプレイボーイの心を引っつかんで話さないような引力がありますネ。まあ、男と女の決定的な出会いというのは瞬間で決まります。何日も何ヵ月もつきあって燃えるなんてもんじゃない。宿命的な恋はすべて瞬間です。瞬間で燃え上がる。しかしガキの恋じゃないヨ、いいねシンタロウ君。

 さっき言ったように彼らはすでに一度終わっているんだ、生きている舞台から、生きながらにして下りてしまっているんだ。なぜエーミイがアフリカのモロッコくんだりまで来たのか、なぜトム・ブラウンはいつ殺されるか分からない外人部隊に入隊したのか、ということだ。一度、人生に幕を下ろしているから、あとは野となれ山となれ、というやけっぱちがある。諦めがある。そのやけっぱちや諦めを露骨に出したら、品がないネ。やけっぱちにも品がないとダメなんだ。エーミイを演ずるのがマレーネ・デートリッヒで、トム・ブラウンはゲイリイ・クーパーが演じなければ、やはり『モロッコ』は名作にならないんだナ。プレイボーイのラ・ベシエールもそうだネ、この役を演じた男優は実によかった。プレイボーイはこういう顔をしていなきゃいけない、つまり観ている者を納得させてしまう演技だった。

 さて、ここで『モロッコ』論を長々と続けるわけにはいかないから先を急ごう。わたしが言いたいのは、この映画の最終場面だ。トムはエーミイを愛してしまう。エーミイはラ・ベシエールに求婚される。エーミイはもちろん二人の男に強く愛されていることを知っている。が、迷いもある。すでに一度、なにもかも捨てて辺境の地モロッコに自分の骨を埋めるような気持でやって来た歌姫が、今さら激しい恋におちることなど想像すらしていなかっただろう。

 が、生きている限り、予想のつかないことは起きるもんです。エーミイはトム・ブラウンかラ・ベシエールか、二者択一の前にたって迷います。なにも迷うことなんかないのにと思う観客もいるでしょうネ。なにしろトム・ブラウンを演ずるのがゲイリイ・クーパーですから。しかし女はいつでも複数の男に激しく求められれば迷うのです。そうそう、『アンナ・カレーニナ』のキチイがヴロンスキーとリョーヴィンに迷ったと同じようにネ。そんなもんですヨ、ね、タクサガワノヴィチ。

チェーホフの『退屈な話』を授業する(2)

……彼女の顔を眺めているうちに、わが輩は自分が彼女よりも仕合せなのが恥かしくなる。同僚の哲学者たちが共通の理念と呼んでいるものが自分に欠けていることを、わが輩は死のまぎわになって気づいたが、この哀れな娘の魂はこれまでも、これからも一生涯、隠れ家を知らないで過すのであろう!
 「カーチャ、朝御飯を食べよう」とわが輩が言う。
 「いいの。ありがとう」と彼女は冷やかに答える。
  また一分間、沈黙のうちに過ぎ去る。
 「ハリコフは気に入らないよ」とわが輩が言う。ひどく陰気だ。妙に陰気な町だね。」

 「そうね、……汚い町。……あたしは長くここにはいませんの。……ほんの通りすがりに。今日、発ちますわ。」
 「どこへ?」
 「クリミアへ、……つまりコーカサスへ。」
 「そう。長くいるのかね?」
 「わかりませんわ。」
  カーチャは立ちあがって冷たい微笑を浮かべ、わが輩の顔を見ずに手を差し出す。『すると、わしの葬式には来てくれないんだね?』・・わが輩の顔を見ず、その手は他人の手のように冷たい。わが輩は黙って彼女をドアまで送って出る。……見るまに彼女はわが輩から離れ、振向きもせずに長い廊下を立ち去って行く。わが輩が見送っているのを知っているから、たぶん曲り角では振向いてくれるだろう。
  いや、彼女は振向かなかった。黒い服がちらりとひらめいたのが見納めで、足音が遠のいていった。……さらば、わが宝よ!

 

どうですか、この別離の場面は胸をキュンとさせますネ。それにしてもあと何ヵ月かで死ぬ運命にあるニコライ・ステパーノヴィチが、カーチャの顔を眺めながら、自分のほうが仕合わせだと感じるというのはどうでしょうかネ。いったいカーチャは何を望んでいたんでしょう、そして今、何に絶望しているんでしょうか。カーチャはすべてを捨て、ニコライ・ステパーノヴィチ一人に望みをかけてハリコフまでやってきた。カーチャは「助けてください!」「もう生きていけないのです!」とまで言っていた。しかし老教授は「カーチャ、朝御飯を食べよう」としか言えない。まるで安っぽいカルカチュア小説みたいじゃないですか。三等官の名誉教授たる者が、救いを求めて自分のところにやって来た者にこんな言葉しか発することができないなんて……。全く絶句もんですヨ。しかもカーチャは〈わが宝〉ですヨ、〈わが宝〉。

 そうです、ニコライ・ステパーノヴィチはだからこそ自分が本当に納得していない言葉を発することができなかった。「ほんとうに、カーチャ、わからないんだよ。……」この言葉に嘘偽りはない。わからないものはわからないとしか言いようがない。嘘をつくのは容易だ、が老教授はそんな容易な薄っぺらな言葉をカーチャにはきたくなかった。彼は誠実なんですネ。まず自分の心に誠実です。もう死しか待っていないというのに、今さら嘘なんてついたって仕方ないですからネ。しかしこの誠実は、激しく求める女には何の足しにもならない。女は男の誠実なんかより、情熱的な嘘を求めたいことだってあるわけです。しかしこのニコライ・ステパーノヴィチという男、ついに〈わが宝〉をわが胸に抱きとめることができなかった……。

 カーチャは去って行く、もう二度と再びニコライ・ステパーノヴィチの方を振り向いたりしない。カーチャは〈クリミア〉へ、つまり〈コーカサス〉へ行くと言います。いったいどこですか〈コーカサス〉って。どんな間抜けな読者だってそこがカーチャの新天地であり、幸福を約束する土地だなんて思わないでしょう。チェーホフは「黒い服がちらりとひらめいた」と書いている。実にさりげない書き方で、鈍感な読者は何も気づかないかもしれないが、要するにこの〈黒い服〉はカーチャの〈死〉を暗示している。死ぬのはニコライ・ステパーノヴィチばかりではないんです。カーチャは自分の死を覚悟してやってきたんですヨ、ハリコフまでネ。彼女にしてみれば最も愛するニコライ・ステパーノヴィチと愛を確認して一緒に死にたかったでしょう。だからこそニコライ・ステパーノヴィチが「わしはもうすぐ死ぬよ、カーチャ」と言った時にも、そのことにはひと言もふれずに「わたしはどうしたらいいのです?」としつこく訊き返したんです。カーチャは彼からたったひと言、愛の証の言葉がほしかった。なのに老教授の返事は「わからない」ですからネ。

 カーチャとニコライ・ステパーノヴィチの間に結ばれていた〈絆〉はここで断ち切られます。絆を断ち切ったのはカーチャです。もうこうなったら女は泣きません。カーチャはたった一人で〈死〉の荒野へと去っていきます。カーチャが曲り角をまがったその前方に広がっているのははてしのない荒野です、どうですか、見えますかタクサガワノヴィチ、その寒々とした荒野が……。カーチャに吹いてくる絶望の風を感じることができなければこの『退屈な話』を読んだことにならないヨ。

 ニコライ・ステパーノヴィチが〈わが宝〉を失った孤独、その孤独よりも壮絶な孤独、それがニコライ・ステパーノヴィチの愛を得ることのできなかったカーチャの孤独ですネ。わたしは『退屈な話』の中で書きましたよ、〈わが宝〉を失ったニコライ・ステパーノヴィチのその孤独の姿を眼の前にして「どうでもいい」、ロシア語でフショー・ラヴノー(Всё равно)ですが、そう言えるのかってネ。

 『六号室』に出てくるラーギン医師は「どうでもいい」というのが口癖のような男なんですがネ。確かにチェーホフの文学の基底にはこのВсё равноという気分が絶え間なく流れている。倦怠、アンニュイですネ、何にも期待しない、どうでもいい、この頽廃的な虚無の感覚がある。気だるい感じですネ。まあ、わたしのなかにもこういった気分、感覚はいつもつきまとっている。いま、こういう風に授業で大きな声を出して情熱的にしゃべっていても、実はかなり覚めていて、虚無的なけだるい感じがあるんですヨ。

 タクサガワノヴィチ、どうですかネ、こういった「どうでもいい」という感じは若い時にもあるでしょう、わたしは十代の後半からこういった感覚がありましたネ。それ以来、ずっとあるわけです。

 あっ、ちょっと待って下さい、今、風邪気味で鼻がつまっているんでトイレではなをかんできますから。

 〔一分後〕

 ええと、あと何分ありますか、七分、それじゃもう少し話ましょう。マレーネ・ディートリッヒ主演の『モロッコ』という映画があります。監督はジョセフ・フォン・スタンバーグ。観たことのあるひとどれくらいいますか。えっ、ひとりもいない。芸術学部の学生がこんな有名な映画を観ていないなんて恥ですヨ、恥。この映画にはもうおしまいになってしまったような人間が三人登場します。一人はディートリッヒ演ずる歌姫エーミイ・ジョリイですネ、この女、おそらく失恋して、もう二度と恋などできない、といったかなりクールで妖しい雰囲気を漂わせています。この女がアフリカのモロッコ行きの汽船に乗船しています。デッキで遠くを眺めるような眼差しで煙草をくゆらしてる場面などはかなりきまっています。そうそう、チェーホフは『ともしび』という作品の中で鉄道の施設工事に係わっているアナニエフ技師が、昔、ものにしようとした或る魅惑的な女について「まるで、海も、遠くに見える煙も、空も、とうの昔に見あきてしまって、眼が疲れるだけだ、と言うような様子や、表情なんですからね。どうやら彼女は、疲れはて、退屈しきって」云々と書いているんですが、まさにそういった感じです。

 この歌姫エーミイに接近して来たのがプレイボーーイ風の金持ちラ・ベシエールです。だいたいプレイボーイというのは一人の女を愛しきれない、質ではなく量でこなそうとする男です。ですからベシエールにしてみれば、エーミイもまた束の間の、恋愛遊戯の相手として接近してきたわけです。ところが、この名うてのプレイボーイがどういうわけかエーミイの魅惑の虜になってプロボーズまですることになる。まあ、プレイボーイとしては失格なわけですが、どういうわけか一度終わってしまったような人間は、同じように終わ
ってしまった人間に惹かれるもんなんですネ。恋は~不思議ね~、消えた~はずの~灰のなかから~なぜに燃える~ということですヨ。燃え尽きた灰の中から、どういうわけか再び恋の炎が燃え上がるというわけだ。ね、分かるでしょう、タクサガワノヴィチ!

 さてもう一人、おしまいになった男がいます。これがゲイリイ・クーパー演ずるところの外人部隊に所属する兵士トム・ブラウンです。まあこの男も外人部隊に所属する雇われ兵士ということで、命なんぞいつでもくれてやらあぐらいの気持で生きている。まあ、この男も陽気な女好きのプレイボーイで、たった一人の女に血道をあげるような男じゃない。この二人が最初に出会うのが兵士相手のキャバレーで、この時のエーミイの歌はなかなか魅惑的です。海千山千のプレイボーイの心を引っつかんで話さないような引力がありますネ。まあ、男と女の決定的な出会いというのは瞬間で決まります。何日も何ヵ月もつきあって燃えるなんてもんじゃない。宿命的な恋はすべて瞬間です。瞬間で燃え上がる。しかしガキの恋じゃないヨ、いいねシンタロウ君。

 さっき言ったように彼らはすでに一度終わっているんだ、生きている舞台から、生きながらにして下りてしまっているんだ。なぜエーミイがアフリカのモロッコくんだりまで来たのか、なぜトム・ブラウンはいつ殺されるか分からない外人部隊に入隊したのか、ということだ。一度、人生に幕を下ろしているから、あとは野となれ山となれ、というやけっぱちがある。諦めがある。そのやけっぱちや諦めを露骨に出したら、品がないネ。やけっぱちにも品がないとダメなんだ。エーミイを演ずるのがマレーネ・デートリッヒで、トム・ブラウンはゲイリイ・クーパーが演じなければ、やはり『モロッコ』は名作にならないんだナ。プレイボーイのラ・ベシエールもそうだネ、この役を演じた男優は実によかった。プレイボーイはこういう顔をしていなきゃいけない、つまり観ている者を納得させてしまう演技だった。

 さて、ここで『モロッコ』論を長々と続けるわけにはいかないから先を急ごう。わたしが言いたいのは、この映画の最終場面だ。トムはエーミイを愛してしまう。エーミイはラ・ベシエールに求婚される。エーミイはもちろん二人の男に強く愛されていることを知っている。が、迷いもある。すでに一度、なにもかも捨てて辺境の地モロッコに自分の骨を埋めるような気持でやって来た歌姫が、今さら激しい恋におちることなど想像すらしていなかっただろう。

 が、生きている限り、予想のつかないことは起きるもんです。エーミイはトム・ブラウンかラ・ベシエールか、二者択一の前にたって迷います。なにも迷うことなんかないのにと思う観客もいるでしょうネ。なにしろトム・ブラウンを演ずるのがゲイリイ・クーパーですから。しかし女はいつでも複数の男に激しく求められれば迷うのです。そうそう、『アンナ・カレーニナ』のキチイがヴロンスキーとリョーヴィンに迷ったと同じようにネ。そんなもんですヨ、ね、タクサガワノヴィチ。

チェーホフの『退屈な話』を授業する(3)

2004年1月20日(火曜)

 エーミイはラ・ベシエール家でのパーティ会場から一人抜け出して、トム・ブラウンがいつもいる酒場へと駆けつける。しかしもうそこにはトム・ブラウンはいない。彼はすでに部隊に戻っている。エーミイはあたりを見回し、そしてトム・ブラウンが小刀でテーブルに刻んだ自分の名前のイニシャルを見つける。これは決定的ですネ。エーミイはトム・ブラウンの愛を確信し、彼の後を追います。画面は変換して、眼前に広大な砂漠が広がっています。トム・ブラウンの所属する外人部隊の兵士たちが行軍を開始しています。

 いいですか、砂漠の地平線に行軍の兵士たちが徐々に消えていきます。先頭の兵士が打つ太鼓の音がトントコトン トントコトンと聞こえています。砂漠には激しい風が吹きまくっています。その光景をエーミイが凝っと見つめています。この時のマレーネ・デートリッヒの表情が抜群ですネ、まったくしびれてしまいますヨ。行軍の兵士たちが地平線の彼方に消えた後、今度は彼らを追っていく一群の女たちが砂漠に現れます。彼女たちは兵士たちの女ですネ、惚れた男と運命を共にする女たちです。彼女たちに何の迷いもありませんネ。彼女たちが激しい風に煽られながら、まさに砂漠に向かって一歩一歩足を運んでいく光景は感動的です。観る者の心を揺さぶります。なにしろ彼女たちもまた捨て身ですからネ。生も死も共にする、黙って後をついていく、この姿には覚悟を決めた強い女の意志が伝わってきます。単なる追従じゃありません。そんな光景に感動はありませんからネ。

 それで、こういった一連の光景をエーミイは後方からずっと観ているわけです。その沈黙の顔は美しい、あまりに美しい。ところで、この映画の監督は、このエーミイをさらに後方から黙って見ているラ・ベシエールの顔も映し出しています。その顔もまた美しいですネ。彼は自分が愛し求婚した女エーミイが地平線の彼方に消えていった兵士トム・ブラウンをとるのか、それとも自分のところへと戻ってくるのか、ただ黙って見ているわけです。おそらく名代のプレイボーイであったラ・ベシエールにとって生涯ではじめての、女をめぐっての緊張の時であったのではないでしょうか。

 エーミイはしばし立ち尽くします。いったいエーミイはどちらを選ぶのか。観客も緊張します。そしてついに決断の時がきます。カメラはエーミイの足元を写します。彼女はゆっくりと靴を脱ぎます。いいですか、さっきから言っているでしょう。女が本当に決断した時はゆっくりと行動するのです。裸足になったエーミイは、その一歩を砂漠に踏みだします。決断は下されたのです。ラ・ベシエールはそれを静かに受け入れます。

 エーミイは女の一群の後を、ひとり追っていきます。この光景は壮絶です。今、エーミイが踏みだしたのは〈砂漠〉へ向かっての一歩なんですからネ。若い時の何もかもハッピーなんていう〈恋〉じゃありませんからネ。いいですか、エーミイにとってトム・ブラウンとの〈愛〉は同時に〈砂漠〉なんですよ。砂漠に吹き荒れる激しい風がそのことを端的に語っています。

 いいですかシンタロウ君、エーミイ・・一度は自分の人生を捨ててモロッコまでやってきた女が今再び〈愛〉の荒野へとその一歩を踏み出したんですヨ。エーミイの後ろ姿を黙って見つめるラ・ベシエール、彼の顔もホントよかったです。そのラ・ベシエールの後ろ姿を観ているのは誰でしょうか。……カメラマンですね、そのカメラマンの後ろに控えているのが監督ジョセフ・フォン・スタンバーグですネ。その監督の後ろ姿を見ているのはだれでしょう、分かりますかタクサガワノヴィチ、……それは批評家清水正です。清水正の後ろ姿を見ているのが、砂漠の地平線に消えていった外人部隊の兵士たちですネ。要す
るに円環しているんです。

 さて、ここで再び『退屈な話』の最終場面に戻ります。別離を決意したカーチャは、ニコライ・ステパーノヴィチが自分の去りゆく姿を目で追っていることを知っています。しかしカーチャは振り返らなかった。当たり前です、さっきも言ったように一度別離を決定した女は振り返りません。カーチャはひとり〈コーカサス〉へ向けて出立します。問題はその〈コーカサス〉が、エーミイが一歩を踏みだしたその砂漠よりも荒涼とした、微塵の希望もない〈死の荒野〉であったということです。ニコライ・ステパーノヴィチ一人が死
んでいくわけじゃないんです。泣くことをやめた、助けを断念したカーチャもまた〈死〉へと踏みだしていったんです。わたしは胸が震えましたネ。人間は希望がなければ生きていけない。なぜニコライ・ステパーノヴィチは〈わが宝〉カーチャを失ってしまったんだろう。〈わが宝〉を失った孤独は、〈死〉の孤独よりも孤独だ。この孤独が小説を読みおわったときに襲ってきたんですネ。……お、時間か。ちょうどぴったりだ。今日はこれでおしまい。

チェーホフの『退屈な話』を授業する(3)

2004年1月20日(火曜)

 エーミイはラ・ベシエール家でのパーティ会場から一人抜け出して、トム・ブラウンがいつもいる酒場へと駆けつける。しかしもうそこにはトム・ブラウンはいない。彼はすでに部隊に戻っている。エーミイはあたりを見回し、そしてトム・ブラウンが小刀でテーブルに刻んだ自分の名前のイニシャルを見つける。これは決定的ですネ。エーミイはトム・ブラウンの愛を確信し、彼の後を追います。画面は変換して、眼前に広大な砂漠が広がっています。トム・ブラウンの所属する外人部隊の兵士たちが行軍を開始しています。

 いいですか、砂漠の地平線に行軍の兵士たちが徐々に消えていきます。先頭の兵士が打つ太鼓の音がトントコトン トントコトンと聞こえています。砂漠には激しい風が吹きまくっています。その光景をエーミイが凝っと見つめています。この時のマレーネ・デートリッヒの表情が抜群ですネ、まったくしびれてしまいますヨ。行軍の兵士たちが地平線の彼方に消えた後、今度は彼らを追っていく一群の女たちが砂漠に現れます。彼女たちは兵士たちの女ですネ、惚れた男と運命を共にする女たちです。彼女たちに何の迷いもありませんネ。彼女たちが激しい風に煽られながら、まさに砂漠に向かって一歩一歩足を運んでいく光景は感動的です。観る者の心を揺さぶります。なにしろ彼女たちもまた捨て身ですからネ。生も死も共にする、黙って後をついていく、この姿には覚悟を決めた強い女の意志が伝わってきます。単なる追従じゃありません。そんな光景に感動はありませんからネ。

 それで、こういった一連の光景をエーミイは後方からずっと観ているわけです。その沈黙の顔は美しい、あまりに美しい。ところで、この映画の監督は、このエーミイをさらに後方から黙って見ているラ・ベシエールの顔も映し出しています。その顔もまた美しいですネ。彼は自分が愛し求婚した女エーミイが地平線の彼方に消えていった兵士トム・ブラウンをとるのか、それとも自分のところへと戻ってくるのか、ただ黙って見ているわけです。おそらく名代のプレイボーイであったラ・ベシエールにとって生涯ではじめての、女をめぐっての緊張の時であったのではないでしょうか。

 エーミイはしばし立ち尽くします。いったいエーミイはどちらを選ぶのか。観客も緊張します。そしてついに決断の時がきます。カメラはエーミイの足元を写します。彼女はゆっくりと靴を脱ぎます。いいですか、さっきから言っているでしょう。女が本当に決断した時はゆっくりと行動するのです。裸足になったエーミイは、その一歩を砂漠に踏みだします。決断は下されたのです。ラ・ベシエールはそれを静かに受け入れます。

 エーミイは女の一群の後を、ひとり追っていきます。この光景は壮絶です。今、エーミイが踏みだしたのは〈砂漠〉へ向かっての一歩なんですからネ。若い時の何もかもハッピーなんていう〈恋〉じゃありませんからネ。いいですか、エーミイにとってトム・ブラウンとの〈愛〉は同時に〈砂漠〉なんですよ。砂漠に吹き荒れる激しい風がそのことを端的に語っています。

 いいですかシンタロウ君、エーミイ・・一度は自分の人生を捨ててモロッコまでやってきた女が今再び〈愛〉の荒野へとその一歩を踏み出したんですヨ。エーミイの後ろ姿を黙って見つめるラ・ベシエール、彼の顔もホントよかったです。そのラ・ベシエールの後ろ姿を観ているのは誰でしょうか。……カメラマンですね、そのカメラマンの後ろに控えているのが監督ジョセフ・フォン・スタンバーグですネ。その監督の後ろ姿を見ているのはだれでしょう、分かりますかタクサガワノヴィチ、……それは批評家清水正です。清水正の後ろ姿を見ているのが、砂漠の地平線に消えていった外人部隊の兵士たちですネ。要す
るに円環しているんです。

 さて、ここで再び『退屈な話』の最終場面に戻ります。別離を決意したカーチャは、ニコライ・ステパーノヴィチが自分の去りゆく姿を目で追っていることを知っています。しかしカーチャは振り返らなかった。当たり前です、さっきも言ったように一度別離を決定した女は振り返りません。カーチャはひとり〈コーカサス〉へ向けて出立します。問題はその〈コーカサス〉が、エーミイが一歩を踏みだしたその砂漠よりも荒涼とした、微塵の希望もない〈死の荒野〉であったということです。ニコライ・ステパーノヴィチ一人が死
んでいくわけじゃないんです。泣くことをやめた、助けを断念したカーチャもまた〈死〉へと踏みだしていったんです。わたしは胸が震えましたネ。人間は希望がなければ生きていけない。なぜニコライ・ステパーノヴィチは〈わが宝〉カーチャを失ってしまったんだろう。〈わが宝〉を失った孤独は、〈死〉の孤独よりも孤独だ。この孤独が小説を読みおわったときに襲ってきたんですネ。……お、時間か。ちょうどぴったりだ。今日はこれでおしまい。

チェーホフの『退屈な話』を授業する(3)

2004年1月20日(火曜)

 エーミイはラ・ベシエール家でのパーティ会場から一人抜け出して、トム・ブラウンがいつもいる酒場へと駆けつける。しかしもうそこにはトム・ブラウンはいない。彼はすでに部隊に戻っている。エーミイはあたりを見回し、そしてトム・ブラウンが小刀でテーブルに刻んだ自分の名前のイニシャルを見つける。これは決定的ですネ。エーミイはトム・ブラウンの愛を確信し、彼の後を追います。画面は変換して、眼前に広大な砂漠が広がっています。トム・ブラウンの所属する外人部隊の兵士たちが行軍を開始しています。

 いいですか、砂漠の地平線に行軍の兵士たちが徐々に消えていきます。先頭の兵士が打つ太鼓の音がトントコトン トントコトンと聞こえています。砂漠には激しい風が吹きまくっています。その光景をエーミイが凝っと見つめています。この時のマレーネ・デートリッヒの表情が抜群ですネ、まったくしびれてしまいますヨ。行軍の兵士たちが地平線の彼方に消えた後、今度は彼らを追っていく一群の女たちが砂漠に現れます。彼女たちは兵士たちの女ですネ、惚れた男と運命を共にする女たちです。彼女たちに何の迷いもありませんネ。彼女たちが激しい風に煽られながら、まさに砂漠に向かって一歩一歩足を運んでいく光景は感動的です。観る者の心を揺さぶります。なにしろ彼女たちもまた捨て身ですからネ。生も死も共にする、黙って後をついていく、この姿には覚悟を決めた強い女の意志が伝わってきます。単なる追従じゃありません。そんな光景に感動はありませんからネ。

 それで、こういった一連の光景をエーミイは後方からずっと観ているわけです。その沈黙の顔は美しい、あまりに美しい。ところで、この映画の監督は、このエーミイをさらに後方から黙って見ているラ・ベシエールの顔も映し出しています。その顔もまた美しいですネ。彼は自分が愛し求婚した女エーミイが地平線の彼方に消えていった兵士トム・ブラウンをとるのか、それとも自分のところへと戻ってくるのか、ただ黙って見ているわけです。おそらく名代のプレイボーイであったラ・ベシエールにとって生涯ではじめての、女をめぐっての緊張の時であったのではないでしょうか。

 エーミイはしばし立ち尽くします。いったいエーミイはどちらを選ぶのか。観客も緊張します。そしてついに決断の時がきます。カメラはエーミイの足元を写します。彼女はゆっくりと靴を脱ぎます。いいですか、さっきから言っているでしょう。女が本当に決断した時はゆっくりと行動するのです。裸足になったエーミイは、その一歩を砂漠に踏みだします。決断は下されたのです。ラ・ベシエールはそれを静かに受け入れます。

 エーミイは女の一群の後を、ひとり追っていきます。この光景は壮絶です。今、エーミイが踏みだしたのは〈砂漠〉へ向かっての一歩なんですからネ。若い時の何もかもハッピーなんていう〈恋〉じゃありませんからネ。いいですか、エーミイにとってトム・ブラウンとの〈愛〉は同時に〈砂漠〉なんですよ。砂漠に吹き荒れる激しい風がそのことを端的に語っています。

 いいですかシンタロウ君、エーミイ・・一度は自分の人生を捨ててモロッコまでやってきた女が今再び〈愛〉の荒野へとその一歩を踏み出したんですヨ。エーミイの後ろ姿を黙って見つめるラ・ベシエール、彼の顔もホントよかったです。そのラ・ベシエールの後ろ姿を観ているのは誰でしょうか。……カメラマンですね、そのカメラマンの後ろに控えているのが監督ジョセフ・フォン・スタンバーグですネ。その監督の後ろ姿を見ているのはだれでしょう、分かりますかタクサガワノヴィチ、……それは批評家清水正です。清水正の後ろ姿を見ているのが、砂漠の地平線に消えていった外人部隊の兵士たちですネ。要す
るに円環しているんです。

 さて、ここで再び『退屈な話』の最終場面に戻ります。別離を決意したカーチャは、ニコライ・ステパーノヴィチが自分の去りゆく姿を目で追っていることを知っています。しかしカーチャは振り返らなかった。当たり前です、さっきも言ったように一度別離を決定した女は振り返りません。カーチャはひとり〈コーカサス〉へ向けて出立します。問題はその〈コーカサス〉が、エーミイが一歩を踏みだしたその砂漠よりも荒涼とした、微塵の希望もない〈死の荒野〉であったということです。ニコライ・ステパーノヴィチ一人が死
んでいくわけじゃないんです。泣くことをやめた、助けを断念したカーチャもまた〈死〉へと踏みだしていったんです。わたしは胸が震えましたネ。人間は希望がなければ生きていけない。なぜニコライ・ステパーノヴィチは〈わが宝〉カーチャを失ってしまったんだろう。〈わが宝〉を失った孤独は、〈死〉の孤独よりも孤独だ。この孤独が小説を読みおわったときに襲ってきたんですネ。……お、時間か。ちょうどぴったりだ。今日はこれでおしまい。

チェーホフの『退屈な話』を授業する(3)

2004年1月20日(火曜)

 エーミイはラ・ベシエール家でのパーティ会場から一人抜け出して、トム・ブラウンがいつもいる酒場へと駆けつける。しかしもうそこにはトム・ブラウンはいない。彼はすでに部隊に戻っている。エーミイはあたりを見回し、そしてトム・ブラウンが小刀でテーブルに刻んだ自分の名前のイニシャルを見つける。これは決定的ですネ。エーミイはトム・ブラウンの愛を確信し、彼の後を追います。画面は変換して、眼前に広大な砂漠が広がっています。トム・ブラウンの所属する外人部隊の兵士たちが行軍を開始しています。

 いいですか、砂漠の地平線に行軍の兵士たちが徐々に消えていきます。先頭の兵士が打つ太鼓の音がトントコトン トントコトンと聞こえています。砂漠には激しい風が吹きまくっています。その光景をエーミイが凝っと見つめています。この時のマレーネ・デートリッヒの表情が抜群ですネ、まったくしびれてしまいますヨ。行軍の兵士たちが地平線の彼方に消えた後、今度は彼らを追っていく一群の女たちが砂漠に現れます。彼女たちは兵士たちの女ですネ、惚れた男と運命を共にする女たちです。彼女たちに何の迷いもありませんネ。彼女たちが激しい風に煽られながら、まさに砂漠に向かって一歩一歩足を運んでいく光景は感動的です。観る者の心を揺さぶります。なにしろ彼女たちもまた捨て身ですからネ。生も死も共にする、黙って後をついていく、この姿には覚悟を決めた強い女の意志が伝わってきます。単なる追従じゃありません。そんな光景に感動はありませんからネ。

 それで、こういった一連の光景をエーミイは後方からずっと観ているわけです。その沈黙の顔は美しい、あまりに美しい。ところで、この映画の監督は、このエーミイをさらに後方から黙って見ているラ・ベシエールの顔も映し出しています。その顔もまた美しいですネ。彼は自分が愛し求婚した女エーミイが地平線の彼方に消えていった兵士トム・ブラウンをとるのか、それとも自分のところへと戻ってくるのか、ただ黙って見ているわけです。おそらく名代のプレイボーイであったラ・ベシエールにとって生涯ではじめての、女をめぐっての緊張の時であったのではないでしょうか。

 エーミイはしばし立ち尽くします。いったいエーミイはどちらを選ぶのか。観客も緊張します。そしてついに決断の時がきます。カメラはエーミイの足元を写します。彼女はゆっくりと靴を脱ぎます。いいですか、さっきから言っているでしょう。女が本当に決断した時はゆっくりと行動するのです。裸足になったエーミイは、その一歩を砂漠に踏みだします。決断は下されたのです。ラ・ベシエールはそれを静かに受け入れます。

 エーミイは女の一群の後を、ひとり追っていきます。この光景は壮絶です。今、エーミイが踏みだしたのは〈砂漠〉へ向かっての一歩なんですからネ。若い時の何もかもハッピーなんていう〈恋〉じゃありませんからネ。いいですか、エーミイにとってトム・ブラウンとの〈愛〉は同時に〈砂漠〉なんですよ。砂漠に吹き荒れる激しい風がそのことを端的に語っています。

 いいですかシンタロウ君、エーミイ・・一度は自分の人生を捨ててモロッコまでやってきた女が今再び〈愛〉の荒野へとその一歩を踏み出したんですヨ。エーミイの後ろ姿を黙って見つめるラ・ベシエール、彼の顔もホントよかったです。そのラ・ベシエールの後ろ姿を観ているのは誰でしょうか。……カメラマンですね、そのカメラマンの後ろに控えているのが監督ジョセフ・フォン・スタンバーグですネ。その監督の後ろ姿を見ているのはだれでしょう、分かりますかタクサガワノヴィチ、……それは批評家清水正です。清水正の後ろ姿を見ているのが、砂漠の地平線に消えていった外人部隊の兵士たちですネ。要す
るに円環しているんです。

 さて、ここで再び『退屈な話』の最終場面に戻ります。別離を決意したカーチャは、ニコライ・ステパーノヴィチが自分の去りゆく姿を目で追っていることを知っています。しかしカーチャは振り返らなかった。当たり前です、さっきも言ったように一度別離を決定した女は振り返りません。カーチャはひとり〈コーカサス〉へ向けて出立します。問題はその〈コーカサス〉が、エーミイが一歩を踏みだしたその砂漠よりも荒涼とした、微塵の希望もない〈死の荒野〉であったということです。ニコライ・ステパーノヴィチ一人が死
んでいくわけじゃないんです。泣くことをやめた、助けを断念したカーチャもまた〈死〉へと踏みだしていったんです。わたしは胸が震えましたネ。人間は希望がなければ生きていけない。なぜニコライ・ステパーノヴィチは〈わが宝〉カーチャを失ってしまったんだろう。〈わが宝〉を失った孤独は、〈死〉の孤独よりも孤独だ。この孤独が小説を読みおわったときに襲ってきたんですネ。……お、時間か。ちょうどぴったりだ。今日はこれでおしまい。

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