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文芸時評

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時評家は、とにかく小説を読まなければならない。その小説がとりあげるに値するかどうか、読んでみないことには判断がつかない。

なぜこんな小説とも言えないような駄作が巻頭に載っているのかと、腹立たしくなることもある。しかも、その作者が新人賞や芥川賞を受賞している〈作家〉だというのであるからあきれる。

文芸誌の背を摘んで、五、六回振るとそこに印刷されている文字がどしどし落ちていく、そんな光景すら思い浮かべた。
 

佐野眞一の『人を覗にいく』(ちくま文庫)の中に「近頃の若手の作品には、舶来の文学理論をまぶしたスナック菓子の軽さと猪口才さしか感じられなかった」云々とある。まさに〈猪口才な奴〉がうろちょろしている感は否めない。〈純文学作品〉など売れないのが当たり前なのだから、売れる〈純文学〉を書こう、書かせようなどという猪口才な輩はさっさと商売替えをした方がいい問題は、見るからに猪口才な奴と違って、いつも六、七十点クラスの作品を書いている小説家である。敢えて、作品名も作家名もあげないが、こういった小説家に共通しているのは、〈無限〉〈永遠〉を見つめる眼差しの欠如という、作家としては致命的な弱点を抱えていながらも、達者にストーリーを展開していることだ。人物たちもそれなりに気のきいたセリフを発している。しかし、それは読者の心に響かない〈おしゃべり〉の次元に留まっている。こういった不可ではないが、特別にすばらしくもない、優等生的小説を読む暇があるなら、寝そべってテレビドラマでも見ていた方がましである。南木佳士は『ダイヤモンドダスト』のあとがきで「足が大地に根づき、厚い岩を割る。そんなところに見えてくる人と風景を書きたい」と記している。わたしが小説に求めているのは、南木がここで言う〈人と風景〉であり、頭だけで構築したような作り物の人物や風景ではない。どのように人間は生きているのか、どのように人間は死んでいくのか、それを無限の底を見極めるような眼差しを持って表現するとき、はじめて作家はひとの心を震わすことができる。

佐藤洋二郎の「箱根心中」(新潮)は、〈男〉と〈おんな〉の出会い、同棲、そして心中に至るまでが淡々と描かれる。〈男〉はかつて投資顧問会社に勤め、大手の証券会社の人物と組んで利鞘を稼いでいた。五年前、バブルがはじけ、資金繰りに困った仲間の男が彼の金を着服する。それを知った顧客のキャバレー店主が〈男〉を監禁し、六割安の労賃で働かせる。数時間前、〈男〉は店主から二十万の金を借り、〈おんな〉の待つ部屋へと向かう。〈男〉は夜の街を歩きながら、キャバレー嬢にからかわれたこと、五十近くの売春婦と寝たこと、じっと自分の帰りを待っている〈おんな〉と初めて会った頃を思い出したりする。例によって佐藤洋二郎の小説は、主人公の〈現在〉に様々なレベルでの〈過去〉が挿入される。〈男〉の生をかろうじて支えているのは過ぎ去った過去の思い出であり、彼の〈将来〉は閉ざされている。〈男〉にはやがて呑み込まれていくであろう〈死〉という未来しか残されていない。「死ぬときは一緒」という同じ思いに溶けた〈男〉と〈おんな〉の濡れ場は、死とエロスの濃厚な臭いを発散させている。腹の中央から性器にむかって蚯蚓腫れの傷跡がある〈おんな〉、おんなのくるぶしを握って両足を広げ、じっと脚の付け根を見続けながら、声もたてずに泣いている〈男〉・・・二人は各々のどうしようもない過去と孤独を抱え込みながら、心中によって〈二人でひとり〉の至福を得ようとする。彼らは生に絶望しているというのではない、死に望みを託しているのでもない。重い過去も、現在の生活も、富士山の見える所で心中する決意をした二人には、もうどうでもいいことだ。この小説には、人間の孤独やせつなさ、善悪を超越した男と女のあり様が、骨の髄を抉るように描かれていながら、ふしぎと爽やかな透明感に溢れている。抑制の効いた文体が、全編に緊張を与え、読者の想像力を心地よく刺激する。この小説は、佐藤洋二郎文学の一つの頂点を飾るに相応しい作品である。

 湯本香樹実の「西日の町」(文學界)は〈僕〉と〈母〉と、母の父親〈てこじい〉の三人をめぐる物語である。語り手の〈僕〉は現在四十二歳で医科大学に勤務、英語教師の妻がいる。〈僕〉の両親は七歳の時に離婚。以来〈僕〉は〈母〉との二人きりの生活を送る。〈僕〉が十歳のとき、とつぜん〈てこじい〉が現れる。〈てこじい〉は風来坊の寅さんよろしく、とつぜん家を出たかと思うと、また予期せぬ時に戻ってきたりする。〈母〉は〈てこじい〉に対して一種独特のアンビヴァレントな感情を抱いて、夜更けに爪を切る。作者は、〈母〉と〈てこじい〉のこじれた関係を、十歳の〈僕〉の視点から鮮明に浮上させている。〈母〉が妊娠して、〈僕〉の弟を孕んだときの〈てこじい〉とのやりとり、堕胎、〈てこじい〉がとつぜん姿をくらました翌日、たくさんの赤貝をバケツに入れて帰り、三人して腹いっぱい食べたときのことなど、この小説には〈深刻〉をさらっと描いて、読者の心に深い感動を与える場面が随所にある。〈母〉と〈僕〉の間の〈愛〉、〈母〉と〈てこじい〉の間の〈愛〉、それを小説家は死んでも〈愛〉などという言葉で表現してはならない。〈母〉が夜更けに爪を切り、〈僕〉もまた七歳まで一緒に暮らしていた父親が三十年ぶりに入院先から電話をかけてきた、その夜に爪を切る。小説は何もかもを描く必要はない。省略された空白に、もう一つのドラマが隠されており、読者はその描かれざる場面をも味わっている。〈てこじい〉が息を引き取る場面は戦慄的である。「長いこと、お疲れさま」と、そっと呟く〈母〉の言葉に胸が詰まる。物語も終わり近く、作者は「東京での生活が落ちついてしばらくすると、母は、ときどき夜に爪を切るようになった」とさりげなく記している。作者は〈爪を切る〉という行為の多重性を指示しながら、いっさいの説明を加えない。舞台となった北九州のKという〈西日の町〉は、紛れもなく普遍的な〈西日の町〉となった。読者は「夢見の悪いことをたくさんしてきた」という〈てこじい〉を、「寒い谷底から吹き上げてくる風みたいな声」を出して悪夢のような悍馬を調教していた〈てこじい〉を、家畜の豚を納屋の裏で密殺し手際よく解体していた〈てこじい〉を、怪我をした左の人指し指でモールス信号みたいに畳をトントン叩いていた〈てこじい〉を、堕胎した娘の体を気づかって赤貝をバケツ一杯採ってきた〈てこじい〉を忘れることはないだろう。多くの謎を残して死んだ〈てこじい〉は、〈母〉や〈僕〉だけでなく、読者の〈喚びだし〉をも拒んではいない。解き得ない〈謎〉を前にして、一歩も退かず、〈謎〉を〈謎〉として描きだすこと、それが小説家に課せられた使命である。

紙数が尽きたので、今回詳しく語ることはできないが、早坂類の「ルピナス」(群像)には、背筋が冷たくなるような感動を覚えた。この小説には、なにものかに作品を書かされている者の天才性を感じた。早坂の研ぎ澄まされた感性と想像力は、狂気すれすれの地点で小説創造を果たしている。人間の精神世界の摩訶不思議さ、人間と人間の宿命的な出会いと別離、そして奇跡的な再会、天才的な人間の生と死のドラマ、自然の荘厳で神秘的な姿……久しぶりに小説世界の中に引きずりこまれる快楽を堪能した。

彼は死後の世界に魂の存在を認めず、人間の死に復活の可能性を認めなかった。にもかかわらず彼は「何かが自分を殺さなかった」と書いている。〈何か〉とはなんなのだ。彼を電車に跳飛ばさせながら、なお生かさせている〈何か〉とは。彼は人知では計り知れない〈何か〉を感じながら、死後の世界も復活も信じない人知に従っている。それでいながら彼はそのことの矛盾には気づかない。彼は、自分の存在を大きなものとして認めたがっている。しかし彼はその保証をいかなる他人にも求めない。彼は「自分には仕なければならぬ仕事がある」と思っている。その仕事は、ここでははっきりと書かれていないが、おそらく人類の歴史に残るような大きな仕事として考えられている。自分がこの世でなし遂げなければならない使命、それを感じているのは自分であり、自分が思えばそれでよいのである。彼が「何かが自分を殺さなかった」と言う時、その〈何か〉とは自分の存在を超越した存在というより、それもまた自分の中に潜んだ〈何か〉としてとらえられていたような感じがする。彼は世界の事象に眼に見えぬ神秘を感じて畏怖を覚えるような男ではなく、あくまでも自分の力を頼む自惚れ屋である。

 

否、彼は自分自身が「何かが自分を殺さなかった」と感じたわけではない。この言葉は彼が中学の時に習ったロード・クライヴの本の中に書いてあったことだ。彼はこのクライヴの言葉を思い出し「実は自分もそういう風に危うかった出来事を感じたかった。そんな気もした」と書くに止まっている。彼は神秘家ではない。彼は言わば一人の常識人であり、分別や理性的判断を越えた神秘をそのまま認めるようはことはしない。ただ「そんな気もした」だけである。しかし彼が「自分には仕なければならぬ仕事があるのだ」と思っていたことに間違いはない。彼は怪我の後養生にのみ但馬温泉に逗留していたわけではないだろう。〈読むか書くか〉これが彼の仕事である。彼は小説家としての仕事をしなければならない。自分が一命をとどめたのは或る〈何か〉の働きではなく、単なる偶然であったとしても、彼が〈仕なければならぬ仕事〉を深く自覚していたことは言うまでもない。

 「然し妙に自分の心は静まって了った」と彼は続ける。彼は、自分を殺さなかった〈何か〉、人知では量り知れぬ神秘、人間を超越した或る何かを感じて現実から遊離することはない。彼は瞑想に耽るような宗教家のタイプではない。彼は人間は誰もが死んでしまうというその事実を冷徹に認めるだけである。その冷徹に見据えられた〈死〉に彼は〈親しみ〉を感じている。「祖父や母の死骸が傍にある」・・つまり彼にとって〈死〉は〈死骸〉という純粋な〈もの〉であって、それは永遠に滅びることのない魂とか、復活を約束するものではない。死に対して潔い態度と言えるかもしれない。生きてこの世にある者は、死後の世界を知らず、死んで蘇ってきた者を知らない。キリスト教に関心のある者で、イエスが起こした前後未曾有の一大奇跡、死後四日もたって死臭を放っていたラザロの復活を知らない者はいない。しかし、その復活したラザロも今日の世に生き続けているわけではない。イエスによって蘇生して来たラザロもまた再び死の淵へと呑み込まれて行ったのだ。元内村鑑三の弟子(なまぬるい基督信徒)であった志賀直哉は、小説の中で〈罪〉を〈罰〉を〈復活〉を真っ正面から取り上げることはなかった。イエスの言葉「わたしは命であり、復活である。生きて私を信ずる者は永遠に死ぬことはない」を文字通り信ずるキリスト者にとって、死はもちろん単なる死ではない。〈姦淫の罪〉に躓いて内村鑑三の元を離れた志賀直哉は、以後〈罪〉や〈魂の永世〉について掘り下げることはなかった。彼は死は死でしかないという考え、先に死んだ者の死骸の傍に自分の死骸が置かれるだけだという考えを〈淋しい〉と感じるが、しかし同時に「それ程に自分を恐怖させない考えだった」とも書いている。

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